写体

言葉なら文体といっても翻訳すればstyleとなってしまうが、写し写されたコトの文体ならぬ写体を、都度見極めることはしてきたつもりだが、明日へ繰り返すしかない日常の速度の中、突き詰める手前で、反復の快復の歩きが、頭をすっきり空にしてしまう。それでも、殊更な理由を捏ち上げて、十数年前と数年前と昨日のようなものを併置し眺める仕立てを考え、選別の最後の形を見ようと時間を注いだ。

残されたものの端的な印象は、人の目という欲動の写体とは違う。観測の目に近いけれども、ある種執拗な神経が蜘蛛の巣のように巡っている。あるいは結局自身が写すという行為には興味がないのかもしれないと、一度は渋く静まりかえったものだが、やがて時間を置いて歩きはじめると、そんな神経質な観測スタイルを継承する意気地が指先に点るようにシャッターを押している。

デジタルという恩恵で、写体確認、観測結果の探索を、随分効率的にできるようになった。その利便に肖った反動で、見極めの土俵上で踏ん張る時間をも短縮する傾向があったかもしれない。なにか忙しない日々の頓着が、仕事であれ個人主義に任せた欲望であれ、背を押されたような格好のまま寝床に入り、その同じ姿で目覚めていると、呆れかえった師走に、時間を取り戻したい願ったことが、年齢的なものであろうと、功を奏したと考えた。

時間を注ぐ確認作業に埋没すればするほど、それ自体に取り込まれて自足し、長大な大蛇となって冬眠をしかねない。それほどの愉悦感は広がる。確認結果の表明を、確認作業と切り離すように、出力という目に見える形へ押しのける作業を加えることで、大蛇は脱皮をして青い皮膚を取り戻せると睨んだ。それはそのとおりの効果はあり、選別の結果の儚い数十枚を、ではどのようにこの現実世界に配置するかを考え始めると、切り捨てた様々な世の事情に再び絡み始めるので、困惑しながらもまた棄てればよいさと、どこか快活な捨て台詞をこぼす。これは良い兆候と思った。

いずれにしろそれほど残ってはいない時間の使い方を、余程考えないと、只管忘却するか蛇の冬眠となってしまうので、身の丈に応じた理性をそこに与えたいものだ。