scale ethics

兎角アイディアを放埒に排泄すると手に余る大きさになる。それを処理するには、見合った関係性を構築し、様々が協力して実現へ向かうものだが、そういうコトを戒めた過去が、こちらにはある。
構想を支えるシステム、手法が、手のひらで行えること。反復鍛錬できること。日常のツールとして定着すること。などなど、戒めの微細はともすれば拡張より縮小を目指すような、貧弱な態をなすけれども、それが肝心ということを、今再び、使い古した道具を磨くように、抱き寄せるのだった。

どこかで必ず依存している生活空間の中で、生きる限り、ものごとを考えるとき、夢想を気侭に許すと公私の輪郭が消える。ということは現実感を喪失するということに限りなく近い。人間の行動、意思を想定する際も、その人間が現実の人間であるのか、そうでないのかが、あまり切迫した事情とならずに、つまり、曖昧なゼリー状の観念の中、闇雲に泳ぐだけの海綿体のようなものに、生そのものが成り果てる。ブラウン管社会がそのようであったように、与えられたイメージのみに反応するしかない。そして標準の中に居る安堵を抱いてその無様に気づかない。
スケールを自覚することを基準に、人間の身体の生活サイズを省みて、知覚をも再想定すると、個人と集団(組織)ではビジョンの基盤が、そもそも異なっているという前提を、再び取り戻すような努力が、双方の弁えとして必要となる。どこかから形のないものにある種の幻影を要求されているという脅迫観念に取り憑かれると、なかなか簡単にはお祓いできない。そういう社会になってしまっているから、この努力というものも、へこまない気概が必要となる。3Dなんていらねえ。空間を生きている。

芸術は爆発だと、より速い速度、大きさ、複雑な構築を、個人も全体も求めたような錯覚が過去あるかもしれない。実は、個人の希求などそこにはなかった。朝起きたら毛虫になっていたと同じように、ただ単に出遅れ、速度に流され、巨大を見上げただけといっていい。戦前、戦中、戦後と、この集団に伝染する遅延態度というものは変わらない。

例えば、ヒュージバケットの大衆娯楽映画製作というものは、ひとつのマニュファクチュア(工場制手工業)であって、集った賃金労働者の生存を約束したテーブルでアイディアが展開されなければ、彼らは路頭に迷う。町工場の製品と変わらない。資金投資するヒュージバケットプロジェクトとはつまり事前確約された流通網の使用許諾(売り上げ回収)にすぎないから、このシステムの安定持続を願うならば使用基準に見合うものは、すべて似たものになる。そうした穴に楔となるべきインディーズシネマの隆盛に対する擁護は、約束事の縛りを与えるヒュージバケットへのご招待(取り込み)ではなく、固有へのリスペクトの限界値という想像力の駆使が必要となる。

確かに、吉本隆明(読売新聞)の示す通り、法螺を吹くような拡張を自粛し、実質的な個体のフットワークを確実なものとさせる scale ethics というものを骨に装着させる必要が、個人は勿論、集団(主体などないが)にもある。享受を都度見極める態度の時を過ごしていることに気づく時は、空洞の腹が膨れた満腹感で関心の喪失という病に陥っている可能性もある。

今後、大きなスケールが構築されているとしても、それがライト(軽い・明るい・正しい)な成立因で構想されているならば、ご時世に適合しているということになるけれども、それだけではつまらない。