target of concern

一緒にTVでも観ましょうよ。誘われたが即座に、関心がないから。と断っていた。それじゃ仕方がないわねと家族は引き下がった。

関心の対象つまりこれは悩みの種。この対象が共有されるものであれば、悩みの対策に困らない。
女のからだとかであれば、雄という人間の類型に則って、土地や家族環境などの系譜出自の差異を嗜好に変えて、関心対象の差異こそ共存の為の他者リスペクトへ転化でき、そうした共同体で生きる実感もうまれる。


ルクソールを遠く妄想した際に、出来る限りのことを調べ、とにかく現地に行ってみなければ駄目という、お決まりの展開になったものの、そうしたことを幾度か繰り返した経験が、否、目にみえるルクソールが関心の対象ではないと、腑に落ちることがあった。いわば「幻視」の為の方言・口実(プレテクスト)として、「ルクソール」という想起仮設に居て、その固有名の磁力を借り、別の彼方へ向かう姿勢を整えるようなものだった。

以来、目の前に「彼方」は、開くことがあり、これがつまり、最大の「関心の対象」であるのだが、共有できるものとは思えないでいる。がしかし、ごく稀に、知ってか知らずか、その展きを切り裂く者がいる。
だからまあ、この対象は、無為な幻視妄想とばかりでもあるまいと、小さく勇気づけられる。

兎角、言葉で説明を施すと陸なことがないわけで、ゆえにこの「関心の対象」は、こちらの切り裂きの技次第によって、見えたり消えたりするのだと、スキルアップならぬ歩行反復に、それを委ねるわけだが、土台、虫けらの姑息でもあるから、形を潜める愚鈍な研きが偽りない姿勢となる。と、これが、神楽歌舞伎芸に対する批判となることも承知で、時に家族をも向こうに回して、罵声を覚悟する。