Restoration

利便や合理、時間短縮や勝手良さを求める全体の流れに背を押され、新しい機能やデバイスを都度更新することで、悪しきプロダクト倫理のギミックが横たわろうとも、経済的な流通はできている。現在の先端とはいえ、知恵の注ぎ込みの結晶のあれこれは、まだまだ感覚知覚の速度には到底かなわない。それでも遅々と改良を加える姿勢には、正当性があると一般には思われている。

崩壊と刷新の世紀を過ごしたせいか、江戸の爛熟期に合理よりも修復、修繕に知恵を注いだ時間の塊を忘却している。修復という手段を選ぶ倫理が根こそぎ枯れたようなこの国の表象に、どこかで同調してきたこちらもいる。リフォームという改築のほとんどが、そういう意味での修復とは異なった刷新であり、あ、見事に変わっちゃったねと、どこか白々しい。
個人的な仕事環境にツールを新しく投入しながら、その利便性を手の中で動かしつつ、逆さまを考えていた。「修復」せよ。
唯物的な有様、身体的状況関係、身近な道具、営みに加えて、思考自体も修復を繰り返してきた筈であり、決して都度、戦争や高度成長のように解体廃棄してきたわけではない。勿論、人間という存在自体、本来的な特徴としてこの「修復」には馴染みが深くなければ、生存の持続はできない。
原理的なギフトとしての身体を軸に、最初から与えられていた原型の修復を続けることが、ひとつの何か新鮮な基準、「倫理」となると、いまさらにあたりを眺め直すのだった。すると面白いもので、そういえば最近手法的な理由で放っておいたフィルムカメラのファインダーを覗く際の瑞々しさも、再読の辿り直しで身体に落ちる「縦書き」のこの国の言語も、どこか修復された故に現れた現実であるなと。
問題は修復へ余儀なく魂を注ぐ基盤の、「使い込み」がそこにあるかどうかという点だ。使い方も知らぬうちに埃が被った故取り替えが効くという浅薄があり、そこには修復というものは産まれることはない。棄てて取り替えるという発作が繰り返される。
つまり唯物的な擁護とは、修復するほどの使い方を持続する上で成立する。