「斥力」という概念が面白いのは、単純な力の関係であるからで、その裏側に引力という逆説を隠し持っているからいるからでもないし、反発する力を象徴構築する短絡的な言葉のもつ意味に惹かれるからでもない。斥力という性質ー(物体間において、互いに遠ざけようとする力)が、人間に作用するように、置く仕草を試みる時、併置に潜在する斥力の可能性を考える時、存在の孤立、排他的な存在の定着に陥ることなく、眺めが切り開かれてはじまる気配に満ちるからだ。存在に悪意があるとしたら、それはむしろこの斥力の欠如を示すのではないかと思う。
斥力場という眺め自体、我々に宿る感想の類いであるにしろそれはそれでかまわない。そのものの、あのものへの遠ざけようと意欲する「形状」をつくること。自然は、単に断片の性質が投げ出されているにすぎない。過剰な仕草を与えると現実は嘘臭くなって、人間の肉の香りを漂わせる。モノがモノである空虚さを、誇るのではなく、我々がモノの性格、性質にやきもきして、焦れるように、「かたち」と「位置」と「表情」をみつけていく作業が、ぼくの立体制作である。人の仕草の象徴としての抽象能力の斥力場というもの。
因に、引力、惹かれあう構造は、斥力を裏側に隠すけれど、そういった出来事はありふれている。所謂、「愛」は引力で語るべきではないということだ。
整いの隙間から滲み出す乱れで、端的な立方空間をつくれないものか。乱雑なゲームにしないで、単純にとした挙げ句が、箱型であった。立方体は非常に便利な形態だ。
睨み合いを睨む。消耗したビデオデッキを再生一時停止させ、画面がエネルギーの停滞に犯されて、ぴりぴり歪んでいる様子をそのまま数日眺める感触。ハードさえ壊れなければ果てがない。
風景を現実としていかに捉えるかは、その方法よりも現実感という意識を回復させないとだめらしいが、ともかくこちらで、風景へ直接働きかけることで、余計で稚拙なイメジを払って、単純な現実をつくろうとする制作は、念力を開発して変幻自在に操ろうとする企みのようなものだ。時に観念も感想も朽ちて、輪郭のメリハリも消えて、どうしようもなくなる。だが痙攣するように身体は動く。そしてわけのわからない感覚で、イメジの残り滓を遠ざけようと、物理的な光景へ関わっていく。その反復が、ぼくの現実感になるのだからおかしなものだ。
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