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午後二時を回ったばかりで影が伸びる陽の傾きで些か頓珍漢な早仕舞いを感じる季節となった。外を歩き爪先で蹴って耳にした枯枝葉の乾いた音を窓の内からも聞こえるかと、山頂から吹き下ろす木枯らしが揺らす樹々をベトナム珈琲を飲みつつ眺める。私は早朝から始める者ゆえに昼前には、その日の行動のほとんどを済ませる慣習があるので、早々に暗くなっても困ることはないけれども、先日目にした子供達の下校の姿を浮かべ、明るいうちに帰宅できれば良いなと祖父の瞳で重ねてから、自身の六歳に満たない朧げな記憶の中から時折選ばれるようにして顕れる、赤い夕陽の先に伸びる馬が歩む農道の光景の季節はいつだったか訝しんだ。
依頼された業務を含め対外的な急遽事案がなければ、日常雑務、読書、創作作品を眺める静かな暮らしの中、週に二度ほど往復三十キロの倹しい食材買い出し以外に運転することがなくなる時節があって、その程度の頻度で車内で流す楽曲のリストは、端末作業の最中に採集したものを、二、三ヶ月で、殊更に偏った傾向に選ぶわけではない雑多な種類のものを、多い時には二十数曲、少なくても十数曲ほど都度最新の日付プレイリストにて繰り返し聴く習慣が私にはある。ふと数年前の日付のものを選んでみると、当時はそれなりに反復して耳に馴染んだものであるにもかかわらず、楽曲の印象やらメロディーをすっかり喪失しており、初めて耳にするもののように感じることがある。ほんの数年前であるにも関わらず、選曲の稚拙な青さに若干恥ずかしさを抱くこともある。おそらくあの時あの頃は他に感けながら呑気な気分で耳で選び車を使っていたのだろう。時々に影響される知覚の劣化は許すことにしている。集積された数十ギガの楽曲全てをランダムに聴く時間が用意される車内ではないから、数ヶ月毎にまとめた細々としたリストを、年毎百数十曲程度にまとめてみることにする。聴こえてくる音響は年々の薄れ消えてしまっていた瑣末で瞬間的な記憶を呼び起こすので、朽ちてきている脳髄にはよろしい修復的な内省となる。数十年前の音響を愛でて偏執的に反復する頑固は持ち合わせていないので、都度の選別は曖昧な感触を頼っているだけだが、十年ほどは選んで酷く後悔したものは数えるほどだ。音響振動の傾向には、ミニマルな抑制を好む時と、リズムが刻まれるもの、古典的な反復、酷く人間的な繊細、あるいは無機的な音響と、選別周期が波形反復を形づくっている。移ろう季節の変化も勿論これを助長するのだろう。この習慣が私自体をくっきり示している。
捲る書籍に関しても同じような雑食系であり、一旦腑に落ちた、あるいは難解で手強く、逆さまの未知を示したままの、同一作家の作品を、私はある種徹底して追うように辿る性癖があるので、楽曲も同様に作曲家の時間軸を、時には遡り出自を調査する聴き耳となる。一度斬り棄てたものを辿ることはない。固有名にて表出される音響作品作家の時間を生の持続形態として体感する時、聴覚にエコー反響する個体性には、音響を超えた性情が滲み出て、こちらとは異なったあからさまな他者性を畏敬する以外の観察態度を持つことはない。
巷の情報に関心がないわけでも疎いわけでもないが、昨今の氾濫錯誤するデジタルが醸す出鱈目に逡巡し疲弊することが重なり、振り返れば書物を手に取って捲る時間がこれまでより膨れるようになった。面白いことにこのアナログ志向は、キーボードを打つことから、ペンや鉛筆を握る時間をも増幅させるようだ。書籍も楽曲やデジタル風説同様、投げ棄てるべきものはある。書棚に数十年以上眠っていた私的過去の辿りの再読から新しい導きを示すことがあり、新刊の幾つかも馴染みのある作家のものが多い。私は、長大に綴られる作家の物語や手法に一喜一憂するために読まない。辿る時間に相応しいと認めた彼の文体にて、頁を捲ることができる。一文に示される言葉は、彼の肉体を支える「骨」として彼の並置の態度を示している。私にとってこの態度が髄に到達する実感言語となるので、聞こえてくる会話や口語すら楽曲に似た音響にすぎないと感じるわけだ。
今のところ枯渇することのない受容する好奇心は学習欲でもあり、生に交互に置かれる飽きもしない放出する意思としての作品創作は、それぞれを入力と出力として照応はするだろうが非対称であると強く感じている。所謂並置という実存的な現象への態度表明の個人的な性情の所以を、自らの環境や血脈にあれこれ探索を行いながら、半世紀を経ても、原基あまり変わり映えしないと知り、その上で並べ置かれる向こう側の世界では、私が並置の一部であり、そこに放られたように私が置かれている。
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