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humanityを棄て物質地獄に堕ちることをカントの物自体という潔癖を横に置いて、もの派は齎したワケだったという達観が今更に浮かんだのは、物質を人間的に扱うことが可能だという傲慢に支配された青臭い制作に手を加えようとしたからだろう。
半世紀近く手元に集められた炭化ケイ素を弄り続けているが、これは謂わば物質コントロールの可否を巡る迷走であり、都度の口実によって炭化ケイ素は精神の懐に取り込まれ、或いは諦めた放置と果てた。粒子の集積によるトーンと、物質結晶が宇宙そのものを引き寄せる無慈悲と、関わった身体運動が、矛盾しながらこちらを惹き寄せる事自体は、つまり私という固有の宿命として得たため息にすぎない。
こうした私の制作が絵画ではなく平面であるとするのは、立体制作での「並置」と変わらないからであり、ともに手のつけようのない物質地獄にて積み木反復と成る。
一時、炭化ケイ素を、鳥籠に雲雀を飼うかに設計を与えた連作として終えてから、呪縛を怪しんで籠から鳥を解放した作品が頓挫の態のままいくつか残り、四半世紀の間、度々目の端に停止し続けていた。この停止は自虐も宿る凝視をもたらし、いつからか星座を眺める人類の眺めと重なって、見る、観る、観測へと目玉は時間によって育まれた。
この目玉は、即座に炭化ケイ素地獄の頓挫を選んだわけではなく、並行して凝視を与えていた他に向かい、修復という欺瞞めいた時間を過ごさざるを得なかったのは、「絵画性」からの離脱がままならなかった自身のアポステリオリな出自に所以がある。
鳥籠からの雲雀解放が長い時間その開放感を静止画像と残り続け、凝視を弛緩させる曖昧なパラドクスの温存に甘んじる時間ばかり過ぎた。ようやく老眼凝視がこれを引き裂く時が訪れる。睨む構えを備えたまま白い平面に向かって、白髪が浸透する白い脳みその夢の中シンプルに疾走するパルクールの、私自身既に半世紀前に実践していた記憶の、明らかに身体が精神を凌駕していた前のめりを、まるで瞬間移動の滑走をそのまま手首に生起させるかに、発作であっても構わない唐突を連れ炭化ケイ素を振り撒くことから始めていた。乾燥させてからこの瞬間を逆さまに停止させる位置を与えるのだった。
時を置かず、静まりを待ち、次は、9億4608万秒を超える位置をポツン、ポツンといくつか与える。
9億4608万秒を超える位置 2026
炭化ケイ素、オイルオンキャンバス F30
juxtaposition beyond 946,08 million seconds
silicon carbide, oil on canvas S40
910 mm x 727 mm x 50 mm
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