ひとつの仕草、理念を追い掛ける時間が我が身と同一化するような人生は耐えられない。まっとうな人間の営みとして制作を考えているわけではないから。ぼくは制作者であろうとすると、淫らな考えにずれていく。これは、制作者の性質というよりも、ぼくの気性なのだと思う。絵画は画布と手首の関係なのだと切り詰めて、反復が充実するように仕組むと、空間に対する別の欲望が頭を擡げる。現実を制作において緊張と集中に満ちたものへ持続するための、わけもわからずにその場を凌ぐように泳ぐ感覚で、立体へ平面の未練など持ち越さないで移行し、またその佳境で端的な平面に憧れる。あっちへいったり、こっちへいったりが、ぼくの制作の構造風景と言える。
「三角関係」「3」ということを当て擦って、闇雲な制作があった。表現だよと胸を張るテーマ、ビジョンなどを祭り上げること自体、胡散臭い感触がはじまりからあった。何の変哲もない、ありふれたことから手をつけたかった。しかし、無関心、無根拠からはエネルギーが生まれない。みつめることに誠実であるしかなかった。ぼくは、だから平面作品と、立体作品と、スタディーを季節にあわせて、こちらを騙しながら、萎えるココロを嫌うように行っていくしかない。連関する効果や作用はあるだろう。分裂が極まる気配もある。そういう不安定な状態が、ぼくの求めている立場なのだろうな。
 三角関係というのは結局、それぞれが無関係を誇るようになると、それを鳥瞰できる場合、その眺めは飛躍的に存在を露にした構造を秘めるらしい。