清高な整えに

 精神の出力と入力の塩梅を測るように、身体の動きの前後には、聴くことと読むことを配置する季節を過ごすように心がけているけれども、音響では、私の子供たちの世代の、リフとスコアが、テクノロジーとエスプリのミニマルな併置の明快な顕われだなと最近感心するが、社会的成熟世代のそれには、余計なもの(社会性)が混濁して聴こえる。聴くように拵える音響では、素人のこちらは、そもそもリフが素直に生まれない。これは身体学習的な楽器演奏がまず必要なのだろう。
 身体的運動が精神的なものばかりに支配されない季節には、瑣末に感けて重い不安など生まれる隙も暇もないのだが、それでも起伏のある自身の意識を闊達に代謝させる為に読むものは音響入力とは逆で、言語的併置の未熟には目を背けてしまう。こちらにとって四十年以上読み続けた作家の筆を、繰り返し辿り直すことは、老年になって未だ有効なものと感じる。
 作家没後に秀逸な編集で纏められたものは、筆が起こされた時点、作家記述の立ち上がった年齢が即座に参照できるので、其々の瑞々しさや戒め、あるいは達観や寛容を、彼の性質として深く受け止めることができる。同時に自身の精神の枠のようなものを、受け止めに照応させて、時には緩め、時として絞る。
 血液検査で発覚した身体の壊れの修復がほぼ一年となる服薬と食事の管理も、こうした精神の出入力に大きな影響があり、数日前に自家製味噌購入の為に出かけた久しぶりの外食では、それまで感じたことのない違和感を味覚に感じ取っていた。