三月から準備した六月の個展のための作品は、社会に対して十全に誂えたものではなく、日々の溜息の域を出ない、振り返りながら闇雲に試みて関わる経過自体を愉しむようなものがほとんどであったから、放り投げていた。中途未完の、作品と呼ぶことがおこがましい面であるので、搬出を終えてから部屋に立ち並べて不足を確認するような目つきを送り、ひとつづつ手で掴み私自身が放り投げる手前に立ち戻る必要があった。
せっつかれた締切がなければ書き終えることなどできないと、誰か物書きの記述があったけれども、中途であることを承知して提出するこちらは、学生の未成熟な課題提出の態度と変わらない。思索反復の継続が意識生存の唯一の手法と見做してからは、こんな為体でも気にならない。こういう態が老害と呼ばれるかもしれない。
但し、一旦放り投げて放置した時間の経過があることで、半端なものを眺める時間が重なって、見えていなかった事象が垣間見え、思いもしなかった取捨選択の枝が伸びることがあり、愚鈍な質の私にとっては、こうした無法が次の歓びとなる。
過去の作品を眺めて、あるいは加筆することをはじめているので、面との向き合いの性格が似たバイアスを持っていることが相乗して、調子に乗っているわけだ。
問題なのは、いきなり新たに貌をだす系の世界線のようなものが時折あって、不具合をかき寄せてまた初見に似た面を妄想してしまうことがあり、近頃では唐突と思われるこうした顕われに対しては、飛びつくのではなく、振り返ってみようという算段で対処するとどうにかなるものだ。
|