成立因

 25年以上時を挟む過去作への加筆という偶然(仕舞い込んでいたものを目の前に取り出す)が引き金となった制作で、無関連な事象の「併置」という仕方の、そもそも個別と数えられる併置する取り替えのきかない個体自体の有り様を、並べ置く構造に依拠させることを、当初は避けるような手付きが生まれていた。その理由は、過去幾度も名指しされていた「関係」という軸での知覚と認識形態の揺り戻しの不快感であり、現在で云う絆とか縁という個人的には聊か気持ちが悪い観念と似ている。例えば榎倉康二の隆盛を誇った滲みの展開(諸要素と空間の相互依存に焦点をあてた作品:wikipedia)は、今眺めると私には恣意が小賢しく感じられることにもある。
 出力がボイドへの放恣とひねくれたその痕跡が作品として残ってしまっている時、放下した空洞という概念が時間と共に変質して、個人的なトポスというサイト・スペシフィックな取り組みの時間を加え、特別な場所性を求める作品の成立因を出力自体へ戻す促しがあるとしても、固有な場所で生じる、誂えと忖度の社会性に取り込まれる。拙い過去の隣へ現在を併置する私のこの試みは、置かれるべき場所を求める性質を一旦棄却し、私自体の時間的差異を明瞭にすることが優先された。首を傾げつつ眺める時間の勝る制作で、あの時の空洞はつまり私自身の空っぽの妄想的空間であると気づきながら、無頓着で荒々しい未熟を、今確信犯となって、行うことができないかと、幾度か頭の中で繰り返していた。
 ひとつの画面への加筆は、空白部分に現在を併置することからはじめていたが、これを経て、過去作を、現在の空洞ともいえる無垢で白い平面の横に並べ置く試みを控えているが、なかなか容易に手をつけられないでいる。