併置音響

 このところ40年前に近寄った波形音学習の辿り直しのようなことをしながら、15年前にはヘッドフョンで耳と腰を潰しDTMに費やして蓄積されたデータを、掘り出すように聴いていた。タイムマシンに乗り込んでいるようだなと感じる。音の図書館があればよいのに。音響から記憶が呼び出される感覚は心地よいものだ。平面表層制作での過去作への加筆と同じ、時間差のある音の併置をはじめた。

 音響の、物理的事象の摩擦音制御の世紀から、ゼロから音を生成させるエレクトロニクスによる物理的には生じ得ない波形音をコントロールするテクノロジー、ハード及びソフト開発の、利便的合理的変容に今更に驚きつつ、私にとっての音響への近接体感は萎えることなく継続しており、考えてみれば、日々反芻する「併置」論として、思索探索可能な領域であると気づいていた。関心のバイアスは、楽曲とかの音楽というより、音の聴こえ方であり、その波動というものに、こちらがどのように関与するかということになる。

 類型的な騒音に塗れる社会を否定するつもりはないし、音響生成の巨匠作品の享受から離れるつもりもないが、私の残りの時間、何が聴こえるのかを考えたいものだ。


http://machidatetsuya.com/2023/sound/061623-rain.mp3

memo
クテシビオスの水オルガン