movement

 半年近く制作で散らかった状態の片付けを始めた内実は、丁度次女が父親の展示鑑賞に来るというので、叱られる前に塵埃はなんとかしようと浅い手間でひとまず凌ぐ程度だった。制作に取り憑く直前初冬実家からの撤去搬送物もそのまま山にはあって、梅雨に突入する時節の雨の音を聴いて、深夜に掃除機から手を離して頓挫する。
 片付け前には個展セッティング後の撮影画像現像しつつ、視座が搬入前のものから別へ移動した実感があり、俯瞰の距離とも、展示完了の無責任なものとも異なった、これまで自ら認識しなかった「私」が見えてくる。
 湯槽に持込み再読をはじめていた水村美苗(1951~)著作の、初読時の「憑依」の印象が、古井由吉に似た言語構築作家だと強く感じられるようになり、漱石の辿り直しも再びそこに加えていた。15年以上前に勝鬨の狭い個人事務所にて、坐骨神経痛を患いつつ文脈など持っていないDTM(Desk Top Music)に、それでも精神を注いだ時間が、こうした移動視座の中ふと蘇って、音響波形をみつめて聴耳を立てる身体知覚の寄り戻しに自ら少々驚く。

 セッティングを手伝って貰った納くんと帰りの車の中で、フィクションとノンフィクションに関して会話を転がし、最近巷で横行する虚偽性障害とも感じられる事象の顕われが積重的な理由となって、そういえば、真実というより、リアルに寄り添う仕方でのみ視界を晴らしながら広げる生存の行方を考えながら片付けをしていた。おそらく、個人的な自覚認識として、百姓農家出自の母親の、滲み染まった虚偽性障害の傾向に、私は幼い頃から気づいており、それを嫌悪する性情を孕みもった生存を継続していることが、兎角虚実曖昧に扱われる「制作」にて、虚偽払拭の動作が顕著に働く。

 古い友人から展示初日に観に行ったと電話でありがたい報告を聞き、幾つか近況を交えて、バイクを転がし続けている状態を讃えつつ、これまで幾度となく彼と交わした会話を憶い出していた。