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 ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889~1951)が、体罰で教職を追われ庭師となった頃、姉のマルガレーテ・ストーンボローの新しい*家の設計(1926)に関わり、寸法や細部の偏執的調整を繰り返し(外装、カーペット、カーテンがない)、これが彼の謂わば社会的抑圧からのレジリエンス(恢復契機)となったことに、彼の排他思想(倫理哲学論考)を横に置いた個人的な深い関心を、私は長い時間継続させている。木片のペントミノ断片(2015~)やドミノピースの立体工作(2018~)を、日々のプラクティスと位置づけ反復継続させつつ、「ウィトゲンシュタインのペントミノ」と命名し、そこから齎される視界の広がりに応じる制作は、やがて工作物設置景と白樺などを切り出した木塊併置立体のインスタレーション景の累積となって目玉に透き通って折り畳まれ、「放下」初動時には空欄空白だった観念を「欠損」であると認識する時が訪れ、「不足の彫刻」を設計する風情の、表層配置を思索する平面制作を行っている。私は最近になって、この個人的な制作はエッセイズムであるな感得しつつある。

 90年代に平面に関わる一方で立体彫刻に憧れる気持ちで、James Rosati (1911~1988)のモニュメンタルな野外設置彫刻作品に傾倒し、緻密な「崩れ」の設計を、自身の視覚造形の学びに大いに取り入れた。彼の空間を切断する斜線を自身で扱うつもりは長い偏愛の後になっても毛頭ないけれども、私は、平面と立体を次元移動する隙間で、幾度も振り返り彼の作品を浮かばせる。1990年に友人の彫刻家から野外彫刻展に誘われたことが、私にこの根を与えてくれた。

 私は昨年、実家新改築設計に携わり、百年前のウィトゲンシュタインを体感するかに、同じような三次元空間の反復探求を行ったことを奇しく感じながら、設計における、昨今の社会「コンプライアンス」倫理の組織的共時性にそぐわない視界ばかりが広がり、酷く個人的な視力が深まるのを感じた。おそらくウィトゲンシュタインの設計後2年に渡って個人的な整合を求め調整を続けた理由も似たものだったのではないか。

 表層にしろ空間にしろ、異なった種類の配置への過程があり、其々が自律的な関わりとなる。配置というと一見ある種の統合的最終ステージ(理念)に向うと思われがちだが、私にとっては、この各過程部位の無関係性(自立性)が、清潔を創出する最大の関心事となっている。

 かねてより地上(重力)と人間(浮遊)を表象するボルダリングには視覚的関心があり、自作の平面表層配置が、ボルダリングのホールドのように眺められるのが興味深い。ホールドの配置はどのように決定されるのだろうか。