静的な観測

 二月末にナカムラジンから唐突な打診があり、追分の彼主催アートプロジェクト沙庭で個展を初夏に行うことになり、雪融けから少々慌てた。昨年半年実家改築に精神も身体も感けて、平面での表層配置の思索は車のハンドルを握った内側で転がすしかなかった。加えて一年前に取り組みをはじめたものが中途で放り出された状態であったので、対外へ向って纏めた風な誂えを考えるのは幾つか年を跨ぐかと思っていた。
 新改築の工事が開始された真冬になって、平面での事象展開へ実務的に時間な与えることが可能となり、読むモノも多く在りつつ、思考を千切りにする動的映像を閉じた音響時空の中、「スタティック」ということと、観察ではない「*観測」という過去へ遡る現在性を、手元の展開の中、みつめる身体性で感じ取るように進めている。危うく揺れる気象のせいもあるが、いつの間にか山の花が咲き散る時となった。
 同時に、社会的参画という意味での「表現」(この言葉はほとんど私は使わない)制作ではなく、私のしていることはエッセイズムであるなと自覚しつつ、それでも反復感を躊躇わずに展開が、否定と隠滅を駆除する透き通った視界へ広がるようにと考えて、もしかすると姑息も宿る愚鈍な手先を、生活の仕草と同じ程度へ並べ、眺める時間ばかり膨れることに苦笑しつつ、腕を伸ばした長さの視野深度の幾つかの平面は、多面指し(将棋)の風情が醸されていく。
 平面であれ立体彫刻であれ、日常の屈託の重なりの中で巡る思念のエッセイという仕草が静的に束ねられて、短絡せずに留まりつつ、先へ促すような契機にすること。これはまあ私という初期からそうであったように感じている。

    *Wikipedia
    観測(かんそく)とは、自然現象の推移や変化を観察したり測定したりすること。(天文学、気象学などの用語)
    様子を見て(観て)、成り行き(起きるであろうこと)を推し測ること。