風樹茂という大阪芸人風のペンネームのノンフィクション作家がホームレスを「無縁地獄」と呼んだらしいが、それはまあどうでもいい。無縁という言葉は、再読をはじめた水村美苗の日本語シリーズから手元に転がってきた。
本を読まない人間にとって、文学(言語)は無縁でしかない。という意味合いの無縁が形成する地獄の公園を考えていた。
限定された興味の対象と繋げられた人間は、その対象とは縁があり、それ以外、関心のない対象、出来事とは無縁であるとしかいえない。ただし、言語という基本的な道具に対しても、より「判りやすい」「平明な」「つぶやき」などといった共有のされ方がモテハヤされ、この国の特異な言語を喪失しつつあるけれども、これは言語に限った現象ではない。
簡単にいってしまえば、柵のある公園で、制限された表象(TV)にボケとツッコミを繰り返しすものたちが集っているようなものだ。日陰も穴も無い、明るく照らされたこの公園は、いうなれば「無縁地獄」ということになる。この明るさには、ある種、退行の白さがあり、病室的でもある。
あちこちに出向いて話を聞く側に立つことが重なり、総じて要してしまえば、この明るい「無縁地獄」のことを詳細にわたって説教されている感触がある。「無縁地獄」の住人であるユーザーの為と銘打った開発の、なんとも浅ましい、恥知らずの戦略の基本に構える人々自体が、既に「難解」「深淵」「反復」「固有」といった地味な文脈と手を切った、浅薄なその場凌ぎの地獄のもてなしに躍起になって唾をとばして、だってとにかく即効で売れなきゃ困るでしょ。喋り続ける。
最近は、情報メディア自体が、これに犯されて、その自覚もないようだ。だが、まあ、この国が崩壊したとしても、この国の言語を読みたいと欲する人間は消えないという希望を示す水村と同じ裁量で、自らの経験感覚からくる手がかりを、地獄の住人に笑われながらも、追うことしかこちらにはできない。最近は笑われてもキレて怒鳴ることもなくなった。
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