首迄川に浸かり、流される身体から伸ばした片手で掴むと大きく傾く、小舟だった。
「お前の決断が、筋を導いた。大量の疾しさを運んだのだ。嗚呼。月が欠けているよ、ほら」
自身の立場を弁えずいきなり反駁するように顎を開き、川面に映った月を杯で掬おうとして溺れ死んだのはあなたじゃないか。若造のような叫びが、喉に流れ込んだ川のうねりで咳き込んで消えた。酒に酔った老人とはまだ呼べない壮健に赤く真っすぐ透き通った眼元を見上げ、この詩人はとうとう人を殺すか。否、累々と殺してきた筈だったか。腹に満たした水が川面の下でちゃぷんと音を立て、虚脱愚鈍な神経をふいに纏った。
白く古びた衣の裾を引きずった強健な足首がこちらの肩に乗り、間を置かずに身体を水の中へと押しやる。三度目の踏みつけで指先の白くなった手が離れた。この蹴りが八世紀の倫理の力よ。殺伐と踏みにじる足蹴がなにかむしろ爽快で力が沸きかえり水の中に淡く在った櫂にしがみつき、殺されてたまるかと、怒りの力が漲って船尾からよじ上ると、割と大柄な身体を細い舟底に横たえて李白が笑っている。
反芻による決定をこれも延々と繰り返し、瞳が淀んだと諦め短く眠る際に夢をみた。身から大きく離れた距離感という意味での健やかさで、録画した新漢詩紀行と世界遺産の街々を、対岸の浜離宮のように、近いけれど遠いなと眺めてから仕切り直し、ひっそりと机に向かうようだったせいかもしれない。いつものことだ。然し、今回の捏造の語り部の言葉として「疾しさ」が残った。
「わたしには、何のやましさも無い」
とはよく耳にする雛形の、身の潔白を申し立てる声(音)だが、これまで、そのままの意味で、言い放った記憶はない。つまり、絶えず疾しさに身体は滲み、かまけている。時には疾しさを払拭する手段を求めている。土台矛盾している。疾しさを克明に眼に見えるようにしなければとも思いつつ、足音を消して歩くこともある。こうした滑稽な姿が、地層のように降り積もった時の崖を眺める目付きが、ああ、夢の中でこちらを殺しそこねた李白の柔らかいけれども現代風な、ギャグとか漫才の片手落ちに息を堪えるような、自己というスタンスの消えた失笑に似ている。
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