現在、何を目撃したいと欲望しているのかと、意欲すること。
置くという仕草を鍛練すること。そこに置かれたものから、置かれた型とか制度化された行為をみるのではなく、むしろ置かれていない、そこに在るとしかいえない、在ることが生々しく見えるだけのこととしての印象を併置して、置くという純化を眺めたい。だからといって、極端に排他的な仕草は、むしろそういった意識がむき出しになる。きりつめるということは、無根拠にころがっている出来事を果敢に捉えたいと欲望する仕掛けであっていい。だから、つくるということは、この意識が働く状態をつくるのであって、その置かれるものの意味をつくるのではない。
積み上げられた形。反復があらわれる。労働の象徴では困る。奔放な、無責任に、見境なく放つ筆線には、容赦ない力が含まれるものだが、その力にも種類はある。あまりに人間的であろうとすると、人間一般の模範としかならない。出来事との狭間で駆け引きを行うこと。
どうでもいいことは、従来の仕組みに従えばよかった。素材が全てではなく、手法が新しいということでもなく。
制作者の身体性が、彼の快楽として片付けられると作品が台無しとなる。時間と空間に都度回帰して、あるいはまた離れようと欲するようなものでなければつまらない。制限された行為はある時倫理的な趣を漂わすが、それはペロッと裏返って暴力的な一方的なものともなる可能性がある。行為(身体性)を制限するのでなく、制作というシステムをきりつめること。
豊かさがあってはじめて切り詰める意識のリアリティーが生まれる。不毛なのは、一度も破壊されず泥にもまみれず哀しい印象だけが愚痴となって積もり、自虐へ内向し、流れず、腐食せず、滅びない呪いとなる閉じた状況への無関心だ。限界から無限界を覗き込むようにしないといけないな。なにもみつめていないというのは、ひとつの悲劇だ。
荒廃し断片が出鱈目に散乱し犯された神経にも気付かない時間がふくれる。独りきりでインでもアウトでもない場で制作するということだ。
まがりなりにも単純なことをみつめられる時が日常に挟み込まれて、生活の他の部分が活性化することがある。そして、それによってまた状況は微妙に変化する。その微妙さに大きな差異と喜びをみいだすのが醍醐味のひとつだ。
作品が制作するものにとって、その1点限りの宿命を背負うようなものになっていくとするなら、負の力に対峙することが仕組みであるなら、制作者は身体にいわゆる制作という時間、空間、運動を醗酵、熟成させることは難しい。然し、この1点という作品は、必ず絶えず彼の近くにあるが、その1点は裏切りと悪意と変化と距離と予感と、、、などを、変幻自在に呼び込む彼方に在る。
気象のすぐれている時間に、日常の仕草を意識の果てで行い、その馴染んだ流れの端的な完成度に自身が驚くのと同じレヴェルで、筆をもちたいというわけだ。それは反復に裏打ちされて、鍛練というニュアンスも含む。作品化はことなった次元でのことと更に考えるわけだが、鍛練の結果がある時ふと表出するように工夫する必要がある。
小さな予知として作品の完成は予想されて然るべきだが、明快且つ自在な荒野として扱う以上、辣韮の皮を剥くような反復に、その完成を越える充実がなければつまらない。
連なるということは世界の在り方のひとつなので、特別な仕掛けではない。その連なりは断片として分裂する可逆の性質も勿論あり、統合と解体という斥力を孕む構造であるといえる。だから、連なっているダイナミズムを単に誇示するだけでは馬鹿みたい。
ビジョンは作品の表面であり、制作者と一体のものかそうかは疑わしい。そんなことはどうでもいい。モノとしての絵画論は同時に歴史学の領域にあって、芸術とは異なる。作品は生の口実である。
しかし、禅の行のような反復は、制作者を黒い箱に閉じ込めることになる。多様な時間と矛盾した空間の震えに身を投じた反復であってこそ、繰り返す意味が切実になる。従来の作品理論は壊されるべきだが、その壊し方をいかに論理化するかで、時間を無駄にする。単に壊す事。
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