併置 2022晩秋

 青森県産制作物の檜板7枚を並べる風呂桶の蓋を半分湯槽に残したまま、タオルを敷き書物を置いて湯の中で記述を辿る時間を十年続ける中、度々文体から視線が離れる脇見の、湯で温められすぎたかどこか生体から遠のいた冷ややかな眺めで、檜でなかったら風呂での読書などしなかったと、実際数ヶ月前にボイラーが壊れ交換修理の間時折市街地に降りて実家の風呂を使いながら、読み物は持参したが白いプラスチックの風呂蓋の上で同じようなことはできなかったことを憶い重ねた。
 自らのこれまでを辿って曖昧な箇所に今更姑息言及するかの手つきで制作を行うと、これも、風呂蓋とタオルと記述という併置と似た、斥力を孕んだ各物の存在の「距離」感によってこれが進行する。契機と動機もが併置となり、進捗自体がまた異質を含んで手元に還り戻る。
 この「併置」の横に置く事のできる、「併置」への関心が失せない理由とも感じられる、人格分離的な差異時空が私の生活には恒常的に在って、平面をイーゼルに立てかけて制作を行う東角、端末業務を行う机、寝転びながら読書とネットブラウジングするソファ、このような日々をメモするダイニングテーブル端末、床に敷いて制作する平面、木材を削る車を移動させたガレージなど、各所で同一生体をもって全く異なった状況に並行関与している。これら「併置」された生から生成される意識もが、無関係のまま差異を持って併置されている。
 年齢の耄碌も加わり、それぞれの差異状況関与の入力と出力に偏りがなくなったのは、関心の度合いが総て平たくなったからとも思われる。
 そしてこうした記述も、併置蓄積され認知認識を頑固に一貫したものとさせない日々の移ろいに任せた証しとなるだろう。