無水鍋で根菜を料理して食す。人と会わない日々は酒を呑むことがなくなり氷水で済ます。二月頭に木炭を置いた画面は二ヶ月筆を与え四月には中途のまま展示し、五月から書斎椅子の後ろに立て掛けたまま半年が過ぎ、椅子を回転させて眺めては机に戻ることを幾度繰り返したか。夏から交互に関わった小さな画面二つが行方知れずの途方に暮れる塩梅となったので、イーゼルに椅子の後ろの画面を置き変えて加筆をはじめていた。
寒中に、秋を見越した立体彫刻のエスキスを想定して気楽な木炭の柔らかさを綿布に与えたものだったが、初夏から思いがけない事象に深く関わることになったので、これまで通りなら汗を流す筈の季節が机から離れることのできない状況で喪失し初冬を迎えている。
小さな二つの平面は、小片累積による組立てからの面決定への揺り戻しのようなものとなり、昨年までとりついた削り出して整えを見る塊に、欠損状態を含ませる形象へと汗に任せるつもりだったエスキスも、筆に頼る時間が嵩めばそれなりの事象帰結になる。
「設計」と云う、完成ありきの言葉どおりのプランニングに関わったせいだろう、社会的な意味を含んだ”consequence”へと接近せざるを得ない時間によって、私の解体中途状況への偏愛が、聊か矮小化されたような気がする。
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