「こうであった」と意識化する、所謂言語は、過去に属しながら、その言語は時を超え記述として遺るという意味で、現在進行しつつある意識は、過去に属するというパラドクスに犯されている。表象も然り。見えることは体感として時を刻む毎に受容享受され感覚されるけれども、その感覚自体は本来的に残らないから、フィジカルな享受(快楽)は、時間と無縁であり、常に消耗喪失し、個的な感覚以外ではあり得ない。もしかすると意識は、フィジカルとは全く別の快楽システムとして、形の違ったドーパミンを生成し、知覚できない海馬の海の中、多様な弱肉強食の摂理に従っているだけかもしれない。
見えることが見えたことになる、「言語」という道具の使い方が、未だ未熟だとも考えられる。発音と表音の知覚差異すら明快に判別できない文化文脈下において、見えていることと発声することの混同のジュラ紀のような発酵の時代に生きているとすれば、スピーチと表意言語との徹底的な差別化が行われる時代が、テクノロジーによってもたらされることがあるかもしれない。
ただし、海馬の海の中、差異の個別は、互いに、遺伝子やウイルスのように変異しつつ、頰を擦り寄せるように近づき、あるいは排他し、あるいは騙し、また殺戮の衝動に従って、作用し合い、求めるような素振りの斥力、嫌悪の愛に頓着する。これは近接の距離、存在の隙間のボリュームに依る。
人間の意味というのは、この海が構想の地平となることだから、豚肉をつり下げる鋼鉄の楔のような無関係さの時間に対しても、数万年以上、意識の横に流すしかなかった。
現在の成立をまず過去であるとする検証のイコンが、明晰でありながらも難解な時空、あるいは「彼方」を示唆する時、成立する現在自体が、難渋で途轍も無い未知に支配されて顕われるとすれば、そうした伽藍蓄積で構造される未来は、やはり人間的なプレコグニションとして顕われ、各存在の隙間には性質の異なった時間が流れる。それは、意識錯乱が、システム機能の基本的な機能を充分に果たすような形となる場合もある。それにしても、動的であることと静的であることの位置と距離が、差異の典型的倒錯のひとつであることは、時間と意識、あるいは現在と意識と同様な無関係を孕んでいて、実に興味深い。表象(過去)の輪郭をオブラートしている時間は、空白状況によっていかようにも変容を受け止めて、その位置をスライドさせ、あるいは複製する。繋がっているように捉えがちの「意識」も、点在の証として、空白を時にデタラメに流れる。だから観念は、表象のオブラートに付着しているような性格となる。
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