書き言葉という出力

 選別に苦慮し調整に苦慮し出力した一枚の印刷物としての写真は、日本語の書き言葉と似ている。
 iPadやらiPhoneやらの小さな高解像度モニターから液晶TVモニターなどに映し出されるイメージ・情報が、話し言葉と似ていると同じ意味で、オブジェクティブな一枚の写真や、製本された写真集は、そこに唯物的に在り続けるという意味で構築(編集)された書き言葉のような繊細を併せ持ち、その存在は、書き言葉の佇まいと近親関係にあるようだ。
 デジタルデータのモニター出力が、話し言葉という流通性と似ているのは、即効性と消滅の速度に関係しており、例えば、昨今気が振れたような騒ぎで大人が熱中している3Dプロダクトも、145文字のアンチコンテクストトリックのツィッターと似ている。水槽の中に泳ぐ一匹の魚を特化して日の丸構図で凝視することを強要される3D眼鏡を鼻に乗せ、弁当の真ん中の梅干しだけを喰うような3Dというアイディアが、日常に浸透し命を全うするとは思えないが、その滑稽でもある異様な差異感は、しばしバンジージャンプのようでもあり、短い牽引された熱狂が退くまで先端の技術という錯覚を伴ってマーケットを活性させる。省略言語や絵文字の従兄弟であるツィッターも、フォローという幻想幻滅が、SNSの対峙未確認想定コミュニケーションで固有な相手を喪失している話し言葉という書き言葉のパラドクスの滑稽と同様、発作的な身体性という否文脈的な熱中は、アンチグローバルでコアなオタクを生成するけれども、寄付やボランティアなどの社会活動(書き言葉)へ変異しないかぎり、セカンドライフのようなゴーストタウンとなる。
 複雑な書き言葉の意味は、即効性ではなく豊穣な機能性にあり、誤読が含まれても、時空を超えて別なものを蓄えて反射するその本来的な性質の、いわば距離にある。書き言葉を消化するには、書き言葉という文脈を抱え込まねば(学習)、血肉とならない。このハードルの高さが、問題とされる社会構造(安易で分かりやすくなければいけない)は、どこか壊れているともいえる。