不感症の合意

 感受の能力が研ぎすまされて、対処の術を知らぬそのほとんどの受け止めを両手を広げて率直真摯に行えば狂うだろう。感じない平常心というものを了解する鈍感な素振りの服を纏う狂わない心、つまり生存の作法を、然し親から子さえへも教えない。稚拙が小さなユニットの反射観察から個的に学ぶしかないわけだ。
 社会合意の鈍感さ、そのあまりに不感症的な有様には、こうした理由がある。
 他人には見えない色が見える。聴こえない音が響く。などという戯言は、鈍感な不感症の淵の中のみに響く鈍い背伸びに過ぎないけれども、その淵の中では可愛いように機能させるしかない。
 本来的な感受の海の中に産み落とされた繊細の数々は、この淵が生存域ではないと知らぬまま狂い、間違った処方箋で、触手が赤く爛れている。
 不感症の合意の中にある「笑い」に、繊細に対する差別的、抑圧的なものが必ず潜むのは、その合意自体に対しての後ろめたさが裏返った、鈍感を正当化する逃避の仕草ともいえる。
 だから、見栄、虚飾といったことも、この合意形成では大いに機能するけれども、恥にまみれていることを知りつつ、繊細発狂を閉ざした退化の宣言のようなものだ。
 しかし、淵の外の荒野で、感受の繊細の小動物以下の生存力で、陽炎のように立ち尽くす当人たちにとっては、なにか最早喪失している内外からの思念の束縛が、懐かしい甘さとなって、淵への回帰願望が頭を擡げるものだ。この回帰にむしろ実質的に手に負えない罪と悪が生まれるのかもしれない。
 だからこの回帰の眺めにこそ倫理の成立の可能性とその根拠があるといえる。