looking back

 数年という短い期間の自身の制作における振舞いを振り返ることが多くなったのは、顕わすことのできる形態の仕様が三種類ほどである諦念が出来て、それぞれの仕組みは仕上がるような性質ではないにしろ、足掻く場所が明快になったからでもある。
 仕様は異なっても、投げ出されるものは、都度「私」であるから、発作的な出鱈目を誇るわけにはいかず、時々の行為の不足、冗長を拾いあげる、時間の経過によるみつめによって見いだすことのできた解決策の吟味にて、平面であれば加筆、変更不能の形態に関しては、文脈系を整え新たな工作を行うわけだが、青年の頃と違って、打開策を全的に外に求める目つきは失せており、うろあたらしい書物を捲っても、新規の認識から別の系を育むような威勢はない。いまだに日々享受する情報は手元の三種類へ雫のように垂れるけれども、合間に外を歩いて戻れば、老年となっている「私」自体が干涸びつつ雫の乾燥痕を認める程度であり、新しさを若年に引渡して、目の前に零されている自身のまだ温かい吐息に取り付くわけだ。
 数多ある「物語」を捲り、それがフィクションであれドキュメントであれ、その中に「振り返り」が示されていると、注視の感が生まれ、人間が歳をとることは成熟とイコールではないと弁えた上で、足掻く歓びが、妙に抑制的であったり癇性が露呈されていたりすることなきよう、静まりを呼ぶには、気象やらに身を預ければよいと知るに至る。