言葉の輪郭

 風呂の中で、書物を捲って言葉を辿ることは、併置を時間的に追って新しく意味を編纂することだと感じながら、それにしても昨今の、主体と客体の確約していない状態のまま、妄想的コミットメントにて放られる「~でしょう」「you know」と語尾を上げながら一方的に同意を前倒しして問答無用で促される小便のような放出の言葉には、私は付き合いきれない。
 政治家の街頭演説の如き大衆迎合的ポピュリズムが、上下左右に蔓延し美辞麗句となり、匿名の揶揄も束になってそれを背後で支える始末だ。
 SNSなどで380度全方向的他者へ放られる短い発作的な言葉には、一体どのような生成の力学があるのか不思議で仕方ない。固有から固有へ結ばれる手紙であるなら、その言葉の行方には、行間的な意味合いが含まれても、直線の関係軸にてそれは回収される。
 私の言語への執着は、幼少から学習的な姿勢が敷かれており、十四、五の頃国語学習の局面でその効果を、まず「読む」という段階にて実感したが、なかなか「記述」するレベルには至る事ができなかった。以降、翻訳などからこの国の言語の初動構築をする作家作品の縦軸総てを辿ることなどで、シェークスピア若しくは夏目漱石がそうであったような示唆的な言語構築を学ぶ喜びがまずあり、踏まえて真面に言語を使いたいと思う気持ちがある。一時ドイツ語を学んだこともそういった筋で行われた。読むのは使うためであり、そんな暮らしを続けて老年になり、家族を含め周囲を見渡せば、日常言語は扨措き、記述言語から皆が遠ざかっている現象が一般となっている感触の中で、記述は過去の雛形に任せればよい、或は今世紀になって顕著な大衆迎合主義主導に任せればよいという有り様に、首を傾げざるを得ない。一体どれほど妄想「共感」が必要なのか。どれほどその幻惑を「共有」されたいのか。それよりも人間は個々が固有であることの自覚の記述が先と、私には思われる。
 抑制と修練の成熟を示すアナウンスメントの技芸的達成を与えてくれた、例えばNHKのアナウンサーも育んだ組織自体も、影が薄くなり、流行の略語や日常の話し言葉を混在させる親しげなポピュリズムのものが多くを占めて掌のうちで騒がしい。耳には楽だが眼には堪え難いものばかりとなっている。新聞などの主要メディアの社説なども、ここ数十年で言葉の含蓄が、ジャーナリズムの辛辣且つ明晰な力を失い、悪しき意味での小説的美文やレトリックにて装飾する勘違いが幅を利かせて、実に不甲斐無い。
 どうでもいいんだ、道具として破綻無く使えるだけでよいという考え方も、勿論あるが、絶えず前後左右を彷徨う精神と意識に翻弄される人間が、その固有な状態を個体責任にて言語化することができないとは、全く無様としか言えない。

 例えば詩人が、白い河に漆黒の花が浮かんでいると記述する時、私たちは、それを情動的に受け止めるのではなく、虚空の冥王星を間近に目にする光景と同質の拒絶を、まずは知るのであって、一歩退いた眼差しが、詩人によって先鋭化したことを悦ぶのだろうから。