昨今のテクノロジーの深化でドローンによる鳥瞰画像や動画が巷に氾濫している。これまでの類似した航空機によるものより、デバイスの小型化による細やかな移動映像の移ろいは確かに際どい印象を与えてくれる。だからといってそういった鳥瞰、俯瞰を選んだわけではなかった。鳥瞰静止と捉えると、むしろ博物館に置いてある立体ミニチュア地形図を臨む印象となるのだと知るのだった。
確信犯として、眺めの位置を選択した俯瞰画像の引用から平面造作にとりかかったわけだが、この稚拙な確信には、日頃足で立ち水平に見上げる山稜から見いだす形象の向こう側というニュアンス、俯瞰山襞から辿れる別の自在形象の創出へ眼差しが促された。できるだけ事象をそのままに受取りつつ、引き出される形象を愉しむつもりもあった。これまで直線による構築の清潔を意識的に選択していることが殆どであったことから、自由曲線にとりつく理由が生まれ、観測に基づくそれだからと口実を与えたことも加わった。
観念の抽象的且つ左脳的な界隈(アンチを標榜する管理系)と、日常の率直な印象をそのまま引き受ける併行作業(落書きの始末)があり、それらと時を重ねつつ、自省や疑いなく引かれた導線に沿った振舞いに過ぎなかったけれども、その過程に於いては、捏造(恣意)の罠が敷かれており、越える為の仕草の抑制、あるいは身を離す弁えなどを、意識の外で行っている実感が絶えずあり、その所作には無論消化されていないことがある。
平面を創作する場合の、こうした「倫理」の提示となるしかない視覚的な露呈は、愉悦とジャッジがパラドキシカルに同居しており、その直中に放下する「きちがい」が鮮明に事象化する。
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