深夜山中の道で遭遇した雌鹿はこちらの車の屋根より高い位置まで腰があって、伸びた首は見上げるほどだったが酷く痩せていた。ヘッドライトに照らされたからか、白鹿のようにも見受けられた。停車したがエンジンを止めずにいたので、その音が五月蝿かった。軈て跳ねて森の中へ消えていってしまったが、十年でたった一度の出会いであったので、強く記憶に刻まれた。
狩猟の季節になると遠方から猟銃の発砲音が聴こえることがある。唐突に鬱蒼とした森谷が大きく根こそぎ伐採される。山売りかもしれず、あるいは半世紀以上前の植生をリフォームする意味でもあるらしい。特定の場所でよく見かけるキツネの親子や狸、落ちるように滑空するムササビかモモンガ、遠方に熊の姿もあったが、他の場所で遭遇した泥だらけのカモシカは、このあたりでは見かけない。叔父は巨大な鹿を轢き車を大きく損傷したことがある。夜中子供が座っていると錯覚した巨大なフクロウには驚いたが、あの白鹿には及ばない。
一瞬何物かを注視するかに静止する仕草のどこか高潔な姿態が彼女にはあって、師走の始め、スケッチブックに頭をどこかへやったままの指先の鉛筆の線が、彼女のようなもの、あるいは彼女は死んでしまったのではないかというような線となった。落書きのようなスケッチを開いたまま机の上に放置していたが、ふいにそのままの線を画布に転写していた。これが、「まだ温かい鹿の腹で眠る」油彩平面の初動となった。
眠る人型は線の錯綜から中途勝手に見いだされたもので、イメージの先行があったわけではない。横たわった白鹿の腹で眠るという安寧も、制作時間後半に徐々に膨れた。
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