絵画の訓練という名目で石膏デッサンをしていたころ、こんな複雑な偽物の胸像ではなく、卵でいいのにと何度も思ったものだ。実際教えていた時には卵を、「そこに在るように描け」などと出鱈目に脅すように素描させていた。
今は亡きナムジュンパイクの作品集を捲りながら、メソドレシピ作成の為にカメラを使って卵を撮影してみようかなと考えた時、在りし日の記憶が浮かび上がったわけだが、同時になんとも明快に、今のこちらの絵画と写真という再認識が風呂敷を広げるように目の前に広がる。
おそらく徹底した技術を会得した画家の描く卵は、スーパーリアリズムで表現されるはずがない。綿密に描けば描く程、描いた行為の繊細が姿を顕すからであり、それはおそろしくも醜いものとなるしかない宿命を背負う。今風の3DグラフィクスやPCでの描写も同様であり、液晶モニターのドットに隷属する。「ほら本物そっくりでしょう」と胸を張る画家は、その偽物を売らねばならない。哀れだが、往々にして狡猾器用なこうした画家は、自らの技芸を売るのだと、僭越な確信犯となる。
この場合結局、絵画の卵が落ち着くのは「〜のようなもの」という、感応させる抽象であって、あれってもしかして卵ではないかという、問いを孕ませる「プレエッグ」という描かれ方にしか完結しないのは、絵画は単なるイメージでしかないという限定的な蓋然性においては仕方がない。
これは、絵画における「世界解釈」のネックであると同時に、踏み超えるべき線であり、絵画を行為や観念のほうへねじり倒してイメージであることから逃れる道もあるけれども、勘違いをしたまま、細密に卵を描く画家は、死ぬまで本物の卵に出会えないというわけだ。無論、それほど「卵」を希求する画家ならば、彼は本体的に画家ではなく、その意気地自体が、イメージなど必要としない別のなにものかということになる。故に画家は描く解釈と行為の中間で、時空に応じた綱渡りをするしかない。
写真の世界解釈は、レンズの解釈であり、人間の傲慢とは種類が違う。だから、感応の技芸をそこに反映させるには、レンズとカメラに従属したまま、機器の恩恵の下で虎視眈々と、複雑に別の何かを構築しなければならない。時に、戦場を走り、時に、少女に媚びを売り。要求されるイメージを運ぶ配達人を覚悟する。
いずれも、対象の世界解釈に躍起になると、同じ道を辿って、無駄な人生を空しく生きることになる。対象など棄てたほうがましというわけだ。だが、だからといって、光の明滅や模様や発作的な印象の無責任な放屁のような形は、結局、傲慢の中から這い出ることはできない。簡単にいってしまえば、絵画も写真も、そのイメージが、何にとってどのように作用するのかという、自明の最終的な世界定着を、基本に戻って構想しなければ駄目よというわけだ。
だから、額縁絵画を描く画家も、報道や雑誌のグラビアを撮影する写真家も、似たような立場であり、同じ土壷の中にいる。
目の前の完成されているかに勘違いされる、絵画、写真の、あまりの不完全さ、稚拙さを再び大きく感じたのは、数日前にFMラジオから、平野啓一郎が、スティービーワンダーを薦めながら、最初はリラックスして癒されるが、アルバムを聴き終える頃には、自分も凄いものを創らなきゃあと鼓舞されるんです。と、おそらく、特異な楽曲の音響伽藍が複雑に構築された作品のバランス、配置の巧妙を指して、彼自身もそれを超える複雑で困難なプロット構築の必要性を感じている呟きと受け止めていたこともある。
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