肖像考


肖像(しょうぞう)とは、特定の人間の外観を表現した絵画や写真である。類似(肖似性)が求められる場合もあれば、理想化が求められる場合もある。芸術的な造形や精神性を示すこともある。代表的なものは、肖像画(絵画)と肖像写真(写真)である。ーwiki
 「肖像」などというと雛形や概念ばかり浮かぶものだ。家族に向けられるスナップ写真も肖像が現れる。ただこの時は、「肖像」とは誰も受け止めていない。勤め先のデスクに置かれた家族写真も同様。家族にとって「肖像化」が起こるのは、葬式などの、冠婚葬祭、つまり特異な節目だけであり、日常では肖像は、仏壇の奥に眠ったままであるのが、ほとんどだろう。これが意味するのは、「肖像」は外に向けられて(家族など共同体を内とすれば)固有の人間を示すということだ。時には、組織にとって固有の肖像(創立者やリーダー)が、都度明示される環境もあるだろうが(北朝鮮など)、これはこの国では現代的とはいえない。つまり機能的ではない。だが、裏返して考えれば、日々現代的な環境では個人の肖像など無用ということになる。(消耗されるタレントグラビアなどは個人肖像というより共有流通する商品と考えたほうがいい)
 自分自身を対象にすれば、selfportraitとなるわけだが、十年程前に、固有名に囚われ(今も弱く囚われ続けているけれども)、人の名前というものが、その存在を端的に示しながら、且つ、名前でしか示す事のできない存在のニュアンスが確かに、名前という表記自体(発音も含めて)に在ると頭を悩ませたけれども、肖像も同じように同時期から、日々魘される素材となったが、その悩みのほとんどは、wikiや、概念的な説明とは何の関係もない場所にある。
 例えば、景色と肖像(らしきもの)を並べると、その異様な差異に、併置すべきでないとさえ思う。肖像としかカテゴライズできない、人間の今日的姿、生の進行形の断片の、単なる免許証やパスポートの証明写真もそうなのだが、ありふれた認識観念の落ち着きの元では、景色と併置されようが、持ち物に添付されようがどうでもよいのだが、「肖像」の歴史的な文脈の果てに灯った、恣意や意図のかき消えた表象として凝視すると、昨今のテクノロジーのクリアさが更に手伝って、例えば、隠した整形痕さえ視認でき、状態の、プールから這い上がったあとに座ったような水の滴りも含め、あるいは、表情のふくらみを抑制した仕草の一部に、生の枝分かれを予感させた、ある種の、黙示の貫禄さえ漂わせる「肖像」が在る、生起していることに気づく。
 家族に対して「肖像」的なスタンスでカメラを向けることもあり、あるいはまた、特定の固有な人間に向かって、その人間を明瞭にしたいだけの目的で写真を撮影すると、「肖像」の、今だからこそ、意味を生成しはじめることのボリュームの大きさに、これまた途方に暮れて、再びまたレンズを向けてみようという、次元の異なった欲望が生まれる。
 そして、この欲望は、ダヴィンチのモナリザではなく、ほぼ百年後のベラスケス、フェルメールの眼差しにひどく似ている。だが、とはいっても、いまだ映像の世紀であるから、やはりレンズを向ける倫理的且つ現代的なメソドは必要となる。