Sense of incompatibility

 不一致の感覚というとこれも違う。sense of difference のほうが近いが、違和感という言葉の座り心地の悪さは、どちらも示しきっていない。この感覚は身体的には、ウイルスに犯された場合の異物認識や、通常時の差異の感覚が、不具合を認識するために作用し、また理解され、利用するが、精神的な、知覚におけるものは、意識しなければ、身体と同様に処理されているようだ。
 違和感を、だが、ある種の肯定的な受容知覚、あるいは、積極的な解析へと投じれば、機能的に考えてみても、対象認識の間口拡大とともに自省を孕んだ、知覚能力、精神的な土壌改変にも繋がることもあり得る。
 見知らぬ場所に立ち、はじめて目にするあたりを見回すように、このdifferenceを知覚機能として発動する「仕組み」として、いわば印象の付点を打つような、稚拙な試みは、絶えずおこなわれてきているけれども、問題は、その付点がいかにも浅薄な「その場かぎり」でしかないということであり、実は、見知らぬ場所のような「装飾」であったり、はじめてみるような「振り」である場合がほとんで、現実自体が、いかに見知らぬものなのかについて言及することを喪失している。
 そうした虚位のジレンマの集積の回路ともいえる社会で、意気地を無くすように生きれば、つまり、ぐるぐる回ってバターになるような、ステレオタイプの言葉が、いかにも王道として使い回され、差異を打ち消す働きさえ持ち、知らぬうちに凶暴な暴力となった、誰もが口にする一言で、differenceへ巡る繊細をずたずたに切り裂くことになり、加えて、当事者は、それに気がつかない。
 あまりに短い時間の中では、そうした救いの促しを、軸を歪ませずに行うには、回路の外側の縁に寄生する程度に立って、そうか、せめて一枚に残し示すことしかできないというわけだ。