川について

 どんぶらこっこと大きな桃が流れてくる物語は、いわば川よりの享受、貰いものの話であるが、川は廃棄の場所でもあり、消去、切断、忘却、別れといったニュアンスを与える。
 生まれ育った地方都市を、三つの川が注ぎ込み交わる場所でなかったらと考えると、全てがひっくり返って、今を想像できない。
 川の無い場所もあるし、川を埋め立てて地下に隠蔽する都市構造もある。川があればどうだこうだということではなくて、川について考えることは、その歴史も勿論、現在の顕われは、予知に繋がっていると、ふと思った。予感、予知というものは、第六感などというより、あからさまな運動に支えられていなければ、そのベクトルの先端を示すことにならないからだ。そして予知は探求(疑惑)の契機として充分すぎる動機となる。
 水が移動すれば、その流れによって大気も移動し、土地は削られ、岩が転がり、人も流れる。いずれ海へ繋がるなどと考える必要もない。父親は病死した犬を川に埋めた。骸は腐る間もなく流れ去っただろう。
 湖を構想すると、窪んだ閉鎖空間が、風に煽られるような微細な差異の出来事となり、ただただ蓄積する。出来事が湖の中央を向くわけだ。それは成熟のモデルとして考えやすい。同じように川を考えると、どこまでも川縁を歩き続ける運動が生まれ、これには果てがないような心地もあり、切断の放棄感も絶えずそこにある。
 と、そういえば、秋川渓谷、奥裾花川、多摩川、千曲川、犀川、南木曽渓谷、荒川、浅川などなど、浮かぶ光景はあまりに多い。
 川について考えていると、ダムがさながら脳梗塞を想起させて邪魔をする。