綿布にジェッソを敷いた面は、時間にて醸成されたエマルジョン敷き麻画布と比較すると、展開の行方に大きな差異がある。いずれかの立場を選択するつもりがないので、その違いをむしろ悦ばしく受け止めて、それぞれへと同時併行して振る舞う時間を過ごす。
小さな二種類の画面でこの差異を意識的に先行しつつ、やや大きなものへ移行したけれども、小さなもので解決したことは多くはない。
綿布の荒い目地を幾層にもジェッソを重ね都度研きを与え凹凸を消し去る手法もあるが、現在の関わりでは、ムラのある一回限りの筆跡も残る下地に敢えて甘んじて、五ヶ月前のスケッチの矩形に生地素材余白の木炭線を含んだまま、油絵具顔料をオイルで乗せる過程となった。初動スケッチの鉛筆には、多面体彫刻インスタレーションから導かれた立体物の行方を孕む動機付けが大きく含まれたが、平面での展開は、やがてそれが無視されつつ、予期しなかった欠損彫刻が浮かぶことになる。
季節の状況が例年と比較してかなり過酷であったので、それを逆手に様々な書物を捲って享受する時間が制作に裏打ちされ、自身のこれまでの経験と認知に加わり、制作の質がどこかエッセイのようなものになったように感じられる。特に中上健次追悼に寄せられた過去の蓮實重彦が指摘言及した、中上健次の抽象的な死と、「おとなしさ」に関して、こちらのエッセイ的な取り組みと重なる部分がある自覚が生まれ、むしろそれがこちらの勝手を加速させたようだ。
中途絵具が枯渇し、追加にて油一(ホルベイン)を取り入れたが、その差異はこれから確かめることができる。多分マツダスーパーとあまり変わりはないと思うが、粒子の微細な感触は、顔料絵具のオイルでの溶き方次第だと思われる。汚れた油壺を磨きつつ、半世紀前に稚拙に手を汚していた、あの時々の油彩の感触が蘇り、それも現在のエッセイに含まれていく。
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