Transfer

 フラクタルや三点ポリゴンで自然を解析投影する数値モデルの台頭もあり、所謂ゲシュタルトのボリューム対象は、嗜好や目的によって果てがないように細分化されるけれども、昨今さまざまな局面で取沙汰される顔認識に代表される「人間•人間の貌」に、時代のプライオリティーが与えられているように思える。景色として俯瞰する光景は、それに準じて、あるいは横に併置されるように眺められるのだが、いずれにしろレンズの歴史が蓄積する記録を日々加えて、人間の生活の中で夥しく消費される認識となっている。つまり観測の対象は時代の好奇心という集合意識が先導するが、やはり人間にとっての関心は「ヒト自体」へ向けられているということだろう。最近の惑星規模に拡大化した感染事象に対する医療もこれを示している。但しこれら集合意識の好奇心は移り変わる表象として「貌」に向けられるけれども、個体としての個人に直に向けられているわけではない。

 個人的実践として、思考と意志決定をジオメトリ(幾何)へ与える私の振る舞いの中途、幾度も宮沢賢治が浮かぶ。というのも、前記したような集合意識に牽引された具体的な対象ではない次元把握は、夜空を見上げることに似た作業であり、あるいは地図を広げて距離を測定するようなものだからで、そんな探索の進捗によって顕われるジオメトリカルな形象は、夜空の星を結んだ矩形と同じ程度の表象表出であり、もとよりそれ以上を加えることを望んでいない。工作にしろ絵画的素描や平面の作品化にしろ、ピート・モンドリアンやワシリー・カンディンスキーといった、宮沢賢治同輩でもある百年前の構成主義的抽象への礼讃を考えているわけで勿論ないのは、わたしのジオメトリに都度意識隣接するのは、ほぼ平行して行う日々の撮影が齎す、人間存在を拒絶する自然の様態であることがそれを示しているが、ジオメトリ表出形象にはこの説明表明が欠落している。自然の観測をそのまま意思決定の手法としないのは、そもそも観測して得る膨大なボリュームをそのまま提示する手段が無いからにすぎない。自然世界を対象とした素晴らしい解像度で撮影した静止画像にしてみても、それだけでは不足している上、撮影という恣意が人間の傲慢を差し込み浅薄に歪ませることが多い。

 高さ、幅、奥行きと時間の経過という四次元を明らかにする立体の取り組みにおいて、わたしという個人の藝術が滑り込む場所は、主に都度数えられる回数の四つの次元に対する「決定」であるけれども、決定の集積が目的ではない。目的はない。形象が決定されている臨界の継続状態が静止画像のように示されるとありがたいが、これはむつかしい。往々にして「頓挫反復」へ下るしかないので、決定臨界(立体の静止画像化)という構築は、未だ霧の中といえる。

 ジオメトリへの決定の隙間、あるいはボイドといっていい空洞のようなものが、決定臨界と等価である気配が私にはあり、更に加えれば、この空洞においてこそ、決定臨界の及ぼす非人間的な藝術が生成されるのではないか。
 大きく翻って、ジオメトリを「人型」へ転化する場合(幾度か試している)、逆説的に決定臨界の場所(空洞)を探すには、集合意識下での象徴性を排除するなにかしらの所以が必要であり、サイボーグのような抗人間性が安易だが可能かもしれない。と対象を他へずらしてみると、形象の言語的名称的な概念の約束事、派生する物語性などの拘束から解放されるはじまりは、ある種の「形象の朽ち方(エイジング•崩壊)」を置くということもできる。とここまできて、「家族の貌」というドメスティックな観測対象へ辿り着き、少々慌てつつ、中上健次ということかと腑に落とす。