中野の古本屋で、地下鉄で読むモノを物色。村上春樹「神の子どもたちはみな踊る」、吉美俊哉・若林幹夫(編著)「東京スタディーズ」購入。
「神の子ども〜」は、神戸の震災をテーマにした短編のオムニバスだが、あっさり一日で読み終え、村上春樹は短編が下手糞だと実感。作家のサンプリング手法も何かとってつけたような悪しき装飾に感じる。ただし、「タイランド」という短編は、そういう装飾を我慢すれば、淡く覗く作品の意味が残ることもある。
「東京スタディーズ」は、新・東京ガイドブックと帯にあるとおり、取り留めも無い乱文の寄せ集めだが、地下鉄では退屈がまぎれて便利かもしれぬ。古本だが、今年の4月に出たもの。翻訳して、世界の各都市に置くと面白い。
柴田淳CD「わたし」DVD「しば漬け」が届く。休日の午後は、これで身体を癒すことにする。
こちらが勝手にサンプリング手法と名付けたのは、強引すぎてわかりにくい。ま、この記録がわかりやすいものである必要を感じていないけれども。
村上春樹はデビュー当時から、例えば、冷蔵庫の中にしまい込んだビール瓶の本数を数えて飲む描写や、大袈裟な表現を極力削除した後のような文体(これは、あくまで〜ような〜でしかない)に共感して、映画好きの(日活ロマンポルノ)Inoueと、コレいいよねなどと感想を交換して、擁護の側で学生生活を過ごした。作家の、生活のステイタス・スタイルを描く手法が、近頃はむしろ余計なモノに感じる。こだわり上げたラーメン屋みたいに、細々したいちいちに理由があり、店主の説明を聴くのが嫌になるのと似ている。言葉を切り詰めるストイックな作家ではないから仕方がないけれども、言葉の織り方、紡ぎ方に、年齢を重ねる度に、意図的ではない幼稚さが顔を出して、受け取る側が恥ずかしくなる。浅田彰と同じサンプリング手法で、外から印象を持ち込み、それを解説する手法は、それなりに成熟すればするほど、オウムのような匂いが立ちのぼるものだ。それと決別するために、例えば「震災」といったテーマへ辿り着いたとしたら、作品は震災の記憶化に終わるのではつまらない。
読み終えて、長女に首を傾げて渡したが、彼女は共感することのほうが多いかもしれない。
享受と理解と擁護は、混同しがちだが、全く異なった人間的な活動だ。良いモノは、干涸びている時に喉を落ちる水のように、享受という消化によって吸収され、形残らず瞬間の享受の快楽すら忘却するが、その享受によって生存を続けることができる。理解し擁護するというのは、パラドクスが潜んでいる。
だから享受自体が心地よくなければ、意味が無いというわだけだ。