ブルボン小林(長嶋有)の「ジュ・ゲーム・モア・ノン・プリュ」を、風呂の中で読みながら、ビデオゲームの変遷を散漫に受け取ったが、これは、やつの趣味的な声にすぎないという落胆が大きかった。芥川賞作家である彼の作品を多少読んだ者は、同様に感じることがあるだろう。
こうしたblogもそうなのだが、日々の発声に近い声のようなものは、足跡のような痕跡であるが、意識的に時間に「現在」を刻み付けるようなものではない。下手をすると煩いだけで、そのほとんどが趣味的な好き嫌いの反射、吐露だから、享受の姿勢でそれを受け取ると疲弊するものだ。
最近地下鉄で捲る新潮や文春などの記事もそうだが、そもそも代弁という形であっても、声というものは、言葉が言葉として見つめられて構築されていない。
所謂観念とイメージを突き詰める言葉の構造体に出会えたときは、脳内が刷新されるような新鮮な驚きに満ちて悦びに打ち震える。とそんな経緯で、再び吉増剛造「オシリス、石ノ神」を手にとるのだった。