雨のあがった休日の午後にDogVilleをレンタルするが、ケースにいれたままピアノの上に置いて、夕方まで留守の長女にと結局昨日購入したアフターダークを読む。次女が腹の上で、シエスタおじさんを読む。
アフターダークは、想起させる映像に新鮮な力が足りない。組み合わせの妙と二十年前は新鮮だった作家性が、嘘くさいキザにしか感じられない。こうしたことにこそ年齢と並行した成熟を注いでいただきたいものだ。構造的には今回借りたドッグヴィルと偶然に重なる。リアリティーではなく手法が酷似しているが、その手法の抽象が引き寄せるパーツ(オブジェクト)のディティールが、作品のトータルな直進性をマイナスに導くこともある。享受の怠惰を戒める意味は持つけれども。なんだか、年寄りが無理して歩み寄る中高生対象の教育デバイスのような安っぽさがある。こうしたことは若手に任せたほうがいい。絵本等への変換も考えた詩のような短編のほうが、作家には似合っている。
特性のない男を読みはじめる。
ダンサーインザダークのLars Von Trierの脚本.監督によるDogVilleには、こうした脚本に頷く俳優という職業の層の厚さに感心すると同時に、ハンディーキャメラの編集が、ロケーションの演劇性を凌いで、所謂物語の展開へこちらをつなぎ止められた。手持ちカメラの視点の移動を手法化させた監督ではある。実際に映像で美しい四季が展開するドッグヴィルという村が現れると、確かに環境に育まれる全く別の頓珍漢な豊かさが突出するかもしれない。観念的に構築する本質的な集団における人間性を扱うという意味では、余計な予算を削ったこうした手法はもっと商業的に成功してよい。
ただし主役の主演女優であるNicole Kidmanの、女優たるビジュアルが作品を牽引していることは否めない。経緯の中途で首を傾げる謎めいた主人公の意志決定の数々の根幹がラストに解かれて展開される時、観客を時間を細かく切りさいて予感を裏切っていくけれども、もうひとつ仕掛けが足りないような気がするのだった。(乳飲み子を銃で撃つというシーンは犯罪と同等だから)
この国でも、出会いを避けた峠の交換など、あるいはまた、集団の切羽詰まったその場凌ぎの即席倫理で、似たような集団による罪を犯してきているが、こちらとしては、本来的で、且つ肉体的、直感的な正しさへの選択力が示されるべき時代ではないか。
だが、大いに示唆に富んだ作品ではあった。