Mystic riverに頭を傾げた。傾げる前に、気まぐれで選んだBulletploof Monkは、耐えられず15分で鑑賞をやめていた。20時間前、猛暑のせいで、こちらの感受能力の低下だと、このところDV編集で膨れたHDを整理して、Wim Wendersの写真作品を眺め、弱く気を取り直していたが、煮え切らないものがあり、Jackie Brown, NARCを再々度観る。確かめたいことがあった。NARCは冒頭からやはり映像の力に圧倒される。反復に耐えるというよりも、繰り返す享受を望んでいる作品といえる。Tarantinoは、スマートだが、映像の深淵を感じさせてはくれない。
明日、WAG THE DOG, The Lesser Evil,とつづける予定。
こうした流れで、[DICORCIAN]を発想する。メソッドは、Philip Lorca-DiCorciaを踏襲。こうして再びFILMへ傾倒。Water DeskはDigitalでは対処しきれないことを確認する。


NARCの物語自体に新しさがあるわけではない。隠された秘密も一度分かればそれで終わるが、反復する度にこちらへ届くこの作品の深淵は、構想とシーンの構築手法、及び編集が、キャメラという道具へ集約して広がる。演出、役者、脚本の、一瞬を、キャメラがモノ自体の基本的な性格に則って切断している。映画は虚構だが、観客はシステムとは逆さまなのリアリティーを求める。その現実感とは、普遍性とも云えるが、むしろそれよりも現実の気配と状況の感触の体感を、レンズで抽出する事ができたと報告する能力が監督の資質となって伝わるのではないか。
わたしにとって、映画から記憶に残るコトは、人間の一瞬の表情や、仕草から落とされる陰影や、声や音という、限りなく静的な光景に近い瞬間の手前のある状態であるような気がする。蠢いているだけではつまらないし残らない。
移動の地下鉄などで、平野の新刊よりも野川を選んでいることも、同じような理由かもしれない。
Marcus Miller聴いて朝を迎える。