グランドミステリーから反復(再読)を促された読書は、長編でなかったし、同じ作家のものを辿ると、文体に慣れが生じていることもあり、地下鉄と食後の時間であっさり読み終え、1994年に出版された「石の来歴」「三つ目の鯰」をふたつ辿る事でこの作家への得心が降りた。書棚に戻す際、森敦の月山に何度か目をやった。後著の庄内平野の描写から誘われたようだ。学校への通勤途中に二日酔いを散らすために飲んだ胃薬と同様、読書は自身の揺らぎを、放るか、修正するか、その何れかを選択するための薬のようなものだと割り切って、その程度だが、それから、Ikedaに頼んだ、オライリーの「HTML&XHTML」を捲り出して、完全な認識地図を目指しているだろうこのマニュアルテキストに尚一層覚醒してしまった。昨夜のIkedaと話の中、おそろしくスタティックなものをプログラムで完全に制御する仕事の面白さと見通しが生まれ、彼のスキルも素晴らしく向上したので、こちらも正確で安定した認識が必要となった。webを表現に走らない道具にしようというわけだ。コンテンツは多様、出鱈目でいい。「ゲート」をいかに構築するかが、これからこの仕事で競われる筈。勿論ブラウザ自体でもいいのだが。有人宇宙船、航空機とまではいかなくても、今時の船舶程度の操縦パネルのような、ブラウザに対応した情報誘導コントロールパネルの試作は、おそくとも年内には形を見たい。いずれPARK indexでその幾つかを展開したい。要らぬグラフィカルな要素は排除して、PARKで実験しているGentaのcheckerのようなプログラム構造だけで、コンテンツの検索、誘導、リンクマップのリスト、通信稼働の関係など、対話型テキストだけで処理できれば面白い。Ikedaはこのところのプログラムの理解と認識によって、FlashのAction Scriptのみで構築される形に興味を抱いたらしい。画像やオブジェクトをタイムラインで動かすってのは、なんだか哀しいと、そういえば酒の中話した。
思っていることがなかなか上手く伝えられない。本当の所を言葉にできないなどといった設定の恋愛ドラマなどが氾濫しているけれども、言葉にしてから思いは理解できる形になり、言葉を使う事で本当の所を探ることができるものだから、そんなことを呟くドラマの主人公たちは思い上がっているし、転倒している。奥泉光の比較的平易、バナールな文体はだが、そういった意味で、言葉の機能が十全に発揮されている。言葉の持つ魔力に引きずられると、その魔力に取り込まれる。そういったことを排除するには、極力言葉の飛躍力を押さえて、当たり前の状態をありのままに、言語化させなければならない。これは自然で当たり前なようで、かなりむつかしい。机の上のグラスの中のアルコールを描写する方法は無限にあるが、この頃私にとって好ましいのは、状態以上でも以下でもない存在が、見えるように言語化されているということにつきる。