状況を説明する事自体に草臥れる程、大小多くの案件が一気に重なり、気づけば現在何をすべきかを見失う慌てぶりが加速し、プライベートも其処へ覆うように折り重なることもあり、横に倒れて睡眠をとる生存の基本にさえ、後ろめたさが浮かんだ。これはまるで台風に慌てる島国と同じ。ちょっとおかしいと何度か戒めて外を歩いた。
PACIFIC 231/蓮実重臣(1967~)の幼少時も要所で顔を出し、著者が40代に入り円熟の思想パラダイムを構成する「反=日本語論」を、地下鉄、歩き辿り着いた喫茶店、憑き物から逃れるトイレの中で捲り、自らの過去のガラス玉を磨くように言葉を取り込んで、鼓膜から垂直に頭の中に響く鐘音に似た血流の騒がしさを、暫し抑制させることはできた。
静まった心地で全てをかき集める事はやめて、ただ過去の記録映像を拾うことから始めるという作業手順が日課となり、拾う精神が疲れてから、他へ繋げた。ものを考えるということは、決断することではないから、決断がクリエイティブであるかどうかは、熟考の成果でなく、個を形成してきた文脈で決まることであるので、こうした方向性に迷いはない。成熟とは云えないが、年月の果ての繰り返される身振りというものがあり、こちらには頼るものがそれしかない。
人間の他愛の無いような発作的な恐怖の仕草が、あらゆる自覚や思想を切断して、取り返しのつかない罪を背負うという示唆が、見事に映像化されているサクリファイス/タルコフスキー(1986)を拾い、同じ頃制作編集していた自らの映像(あの頃の映像は未来を示している)を重ねて拾うと、固有なるものが孕むコンテクストの力(集約度)を改めて感じていた。
夥しい量的表象の海面を眺めるように飛翔すべきと土台無理な飛躍を扇動する者と、勘違いされない為には、適切な救命道具を装着して、いっそ指の間に水かきが出来る迄、その海面を漂って生きながらえるしかない。
歩行の途中眺め見た、台風一過の埠頭に流れついた浮遊物の絶望的な量と内容に、現在が一挙に理解できる清々しさがあった。