いずれも個人的なスケジュールだったが、数日間他を頓挫させ関わり続ける必要があった。深みに嵌って気づくと、いずれに対しても否定的な地点に辿り着くしかなかった。こうした感覚をこれまで幾度か味わったことがある。面白いのは、この反転へのゴール感覚は、何度重ねても裏切って翻らない。つまりこうした切り捨てる反復で、何かを成熟させている筈と手元に祈る。
編集(再検討)の究極は編集しない覚悟となり、その放棄した状態を形にする苦しみに新しく悶えることになる。
教えることは、啓蒙的な立場を切り崩し僕に成り果てて、未熟の内部に潜んで内側を壊れないように押し上げる意気地の持続のみと知るに至る。快適な調度品を揃えて寛ぎを与えるコーディネータのようであると気楽に構えることにしているが、この「与え」に、傲慢さが混じらぬよう「揺らぎ」という戒めが強く打ち込まれていなければいけないので油断はできない。
観念的な目的に対しても、それを放棄するしかないという洗練に至る展開手法は、少しも特殊でなく、歴史を眺めると月並みであると分かる。ただ、この自虐的と捉えかねない咀嚼過程自体を懇々と愛することができる人間は限られている。意味や理屈を溶かし棄てることが出来れば、ある種肉体的な対峙を端的に虚飾無く作動させるだけでよいとなる。それでおそらく「美しい」とか「懸命」という凡庸な達成感や拭いきれない違和感も消える。すっぴんであるべきというわけだ。
消えぬ羞恥はまだあって、例えば道具の選択を、卑怯に行っても、道徳的に行っても、こだわりをもって趣味的に行っても、結果は道具の性能であるから、この結果をあれこれ考える必要はないというパラドクスに負けずに、挙げ句は、ささやかな身の上に充足し、訳も分からずに、こうした時間の流れに任せて掬いとった「断片の生け花」と眺めてみようという骨董趣味に筋金が入るばかりというところか。
水蒸気、電気、原子力など、天才の頭の中では、構想開発のスピードが、人間の生の時間では対応がむつかしい程の飛躍に満ちるとして、それが現実的な機能となる迄の、謂わば娑婆の「異端審問」の厳しい検証をくぐり抜ける時間が、これまで人間的な「ひとつの生」という時間で計り得ることができたわけだが、「終わらない世界」となって、開発は時に独断先行し、知らぬうちに言葉を喪失し虚脱する動かぬ四肢の潰れた生き物に成り果てる切迫感は消えない。
2次元を3次元にコンパクトに見立てる時代の隆盛は、人間の動作空間では、現在の都合によって当面続くだろうけれども、「魂」の成熟は、そうした事情と全く関係の無い場所で、釣り糸を垂れ下げる愚鈍さで、実にゆっくりと行われているものだ。
落語のように落として、さてと仕切り直すこと自体が不能になっていることに気づき、冷や汗が流れるが、感覚はゆったりとリラクスしたものとなったようだ。