最初は意識の先端にあっただろうが、長い間鉛筆のような気軽な道具として手の届く周辺に散乱させ、衣服が汚れることも厭わず「絵の具」と付合った者としては、「色」は、なんとも厄介な存在であり続けた。やれバルールだとか調子だとか見る事が考える事にひとつながりで結ばれない忌々しさを指先で嬲ることしかできなかったからかもしれない。時間が過ぎる程それは濁り、混沌とすることを暫し良しとしていた。無論それも「色」の力ではある。皮膚の下からシルク質の色彩の感覚を痛み無く抜き出すような才能には、だから絶えず嫉妬するしかないわけだ。中途からトーンのみに縛られる金属粒子に移行したのもそうした訳があったからだと、物質と意識の混濁の絵具を放った今になっては、簡単に言う事もできる。が、なんとも説明できない「色彩」への傾斜がカラダの曲がった背骨のようにまだ在る。
レンズが捕らえる光の残像の色を、だから、取り立てて繊細にレセプター機器の機能差別することは、肉体的な「色の過去」を持たなければ、意識に鮮明に届くのだろう。そうしたアマチュアもプロも大勢がそれに夢中になっている。写真の色は、こちらのかつての体液のようだった「色」のフィルターにひっかかり、これも機能による差異に過ぎないのであって、やれコントラストであるとか、色調であるとかに拘れば、濁りの混乱へ落ちると浅薄に考え、色彩自体を本質と考えることが長い間なかなか出来なかったが、RAWデータというデジタルの出現で、フィルムも加えて、所謂写真の「色」として捉え直す契機となり、相対的に比較すれば目に見える単純さとなり、「写真」の意味の再構築を突きつけてくる。だがこちらにしてみると、機能、性能の向上による新開地を前にして顎を上げているというより、これまで気づかなかった領域(見える事という意味)が振り向いた足元よりやや後ろに黒い穴のように見えることが気がかり。
ようやく「本格小説(上)」を読了し、まっすぐな感触で胸元に無理無く取り込まれる風だった水村美苗のオソロシく狡猾な手法(言葉)が、うっすらと磨き込まれた金属の輝きを帯びて頁に浮かぶのだった。的確にそれを指摘するとしたら、「言い淀まない語り」という明快さではあるのだが、それを可能にしたのは徹底した存在のリアリティーであり、なるほど、「続明暗」の構築手法と同じだが、これは「憑依」としか説明できない。そうとしか思えない言葉の連なりの生まれるシステムはどこに在るのか唖然としたまま引きづられつつ、そうか発音(喋り)自体なのだと、レコーディング取材しているに違いないと短絡させ(下)を手にした。
澱みを澄み切った手法で明らかにする。というのは、FBI捜査官の地味で粘着質な時間を注いだ捜査のような小説家の歩みばかりではなく、光の反射にカメラを向けることでもあるが、小説家の執拗な追求が得た「発音」(言葉)と同じ重さのリアリティーのある「シャッター」を押すことは、今後多分数えるほどしかできない。まさか、カメラデバイスの性能のアップグレードが、執拗な追求に相殺されるとは思えないが、時に偶然が手伝って限りなく等しく迫ることもある。
実家書斎書棚より選んだものと、データファイル7冊、6x6、6x7フィルムファイル12冊が届く。
瓶の中の旅愁/小林恭二
現代フランス哲学12講/1986
遠方より無へ/三善晃
ミッシュル・フーコー1920~1984 権力・知・歴史
アシッド・キャピタリズム/小倉利丸
Canon Digital Photo ProfessionalでRAWデータをあれこれ現像して、デジタル現像という事を、カメラからのアプローチという意味でようやく理解する。露出さえ気をつければよいとうわけだ。後は、これを100インチアップの液晶かプラズマモニターで再現させるのか、どの程度の大きさにプリントアウトするのかという事になる。