それに引き換え、言語は間接的で見えないから残酷である。二年ほど前に、「ロンドン・レヴュー・オブ・ザ・ブックス」の書評で読んだほんの三行ほどの文句を私は忘れることができない。目から拭い去ることができない。それほど言葉の表現は目の裏に浸み込んで沈着する。
ルワンダのフツ族強硬派が国連の補助金で密輸入して溜めた何万丁の手斧によって、100万を超す少数派ツチ族と穏健派フツ族住民を大虐殺した顛末に至る歴史と、西洋先進国の無関心を非難した書物の数行の引用の中の、「溝に父親が薪のように切り刻まれて積み上げられ、その脇に幼女が手足を切られ、胴体の首に上下逆さまに置かれた首の口に、父親の血だらけのペニスが突っ込まれてあった」という目撃談である。そこには見えないかもしれない手斧の行為、父娘、薪、上下逆さま、口、ペニスの名詞群は、自然界では決して起こることも見ることもない、人間の怨念と復讐心の仕業のすさまじさで、人間の尊厳を叩き砕いた現実がある。
ー写真と絵画に挟まれた物の光/近藤耕人より抜粋

それならばなぜ撮るのか。撮りたい理由のひとつは、やっぱり物をよく見たいということだと思うんですね。写真機をもっていないと、人間て、よくは物を見ないと思うんです。ここにいてこうしてても、ほとんどみんな何も見ていないに等しいと思うね。ところがカメラをもつと、見ざるをえない。撮影というのは一種の見ることの訓練で、毎日撮っていれば物がよく見えてくるし、目がよくないと写真はできない。視力がいいということじゃなくてね。違う目ができてくる。カメラをもっていないときでも撮影するように見る。
ーブラジルが写真を教えてくれた/港千尋へのインタビューより抜粋

映像に関わる表現芸術の根本問題は永久にこの「映像に過ぎない」という言葉の意味に帰着する。それはけっきょく「映像とは何か」ということで、さらにつきつめれば、リヒターが最後にいった、
「私の絵画における中心的な問題は光である」ということになる。
ー写真と絵画に挟まれた物の光/近藤耕人より抜粋


空虚なプランニングを仕切り直すとしたのはいいが、では、そもそも写真の在る場所というのはと考えて途方に暮れた。
途方に暮れながら、「在る場所」自体を構想しなければいけないことに気づき、この「場所」というパラドクスに惹きこまれると、何か大きな罠にかかってしまった小動物の足掻きのような躊躇いが膨れるようで、さてどうしたらいいと、立ち止まってしまった。果たして固有な「眺め」の社会への具体的な凹みへの凸設置など、可能なのか。
まあ、打開策は、凹みでなく、ガラスか鏡とわかっているが。いずれにしろ環境の調査探索が必要。