最近(過去もそうだが)、テレビ番組は本当につまらないので、時間の無駄だからほとんど観ないけれども、日々の時事を扱うニュースさえ、狭い解釈をごり押しし一方的、娯楽的で情けなくなる。提供する情報自体を研磨するシステムを真摯に開発しないと悪しき薬(麻薬)のようなモノに成り果てる。最近の忌まわしい事件の連鎖の元凶はおそらくこの未熟で無自覚なテレビではないのか? 情報の解析チームというのは在るだろうけれども、その解析の優秀さを各局が差別化した上で競い合うべきだ。娯楽性を排除した様々な新しい倫理観に支えられた物議を醸す対談番組などを観たいものだ。制作者は危機感ってのがないのかね?
というのも、ふと目にしたビジュアルでついつい観てしまった、angel-a/Luc Besson(1959〜)のどうしようもなさを、記憶から削除する為に、munichの制作映像を再度眺め、綿密且つ大胆に練り上げていく、Steven Allan Spielbergの態度とシステムに、新しい倫理を感じたからかもしれない。作品を眺めつつ、Spielbergに例えば、徹底的に史実、事実を追った「三島由紀夫」を映像化してもらいたいものだ。手紙でも書こうかしら。10年かかってもいいからお願いよ、などと呟いていた。
ひとつの事を放り投げる時、それが石にしろ決断にしろ、発作や衝動であったと許された時代は、私にとって過ぎ去ってしまった。モノを考え実践する開かれた広場が都度個々を呑み込み、吐き出しながら変容せずに、むしろ堅牢に閉じていくように思える。独りの人間の存在の固有性を無視したツケが回ったということか。
過去の犯罪を眺めると、集団・グループというものの奇妙な塊そのものに、悪臭を放つ闇と怨念と罪は在り、個人は欠落し、その塊に辛うじてぶら下がっている人間がいたとしても、むしろ無知に近い純朴さを、罪を裏返して纏うことしかできていないように見えるのは、眺めるに耐える事実(個人の歴史)が露になっていないからにすぎない。
平安の次に鎌倉期がやってきたように、平成の次に猛々しい混乱が来るとしても、「ワタシ」という本能を炙り出すようなものなら、もっとヒトは全身全霊を使うようになる。
ボヤイタせいで祟ったのではあるまいが、深夜より体調に妙な感覚を感じていたが、朝になり、扁桃腺が腫れていることに気づく。熱も38度以上ある。頭痛もひどくなった。嫌な咳も出る。とうとう両手を上げパンツを脱いでダウンする時がきたようだ。
根を詰めても意味がないので、病院に行って、学校には休講願いの電話をする。
徹底して休むことにする。
2日間ほど休むことになるかもしれぬ。
関係各位にはご迷惑をおかけしますが、ご容赦のほどを。