寝起きの時にぼんやりと、腰を痛めたからと云って、この痛みは誰にも伝わらないことの不思議を、今頃になって母親の闘病に当て嵌めていた。おかげで、休みながらも、仕事の準備に没頭できたが、没頭すると傾倒するものだ。気づかないうちに右肩が下がっている、あるいは、首を傾げているのを、不意に鏡で目撃する。それまでの自身の滑稽を笑う気分で修正にとりかかる。呑気な遊びならば、そういったことも人間なんだからと柔らかく受け止められる。併しこの没頭に、呑気さは必要ない。傾きの修正を定刻通りに行うことを肝に銘じる。
今年はお前は変革運だそうだよ。と母親の差し出した暦占いの話は、云われなくてもそりゃそうだなと納得する。
これまでの、地味な蓄積のおかげで、ようやくモノが透き通って見えるようになったと、醒めた状態で思うようになった。興奮と熱中という趣味的な歓びから離れたこの感覚は、どうにも説明のしようがない。
折り重なる思考を整理しながら、仕事を通常の倍以上のスピードで進め、不備を検討し、モノを考え続けている最中、ふとポケットの底に固いモノがあることに気づいた。指で弄ると、次女の抜けた歯であることが指先から伝わる。
暫く指先で小さな歯をポケットの奥に忍ばせたまま、指腹に強く押し付けたり、転がしたりする。フィルムキャップにしまうことを忘れていたが、小さな抜けた歯を、そのままポケットに残すことにした。
レスポンスのよい人間と仕事のやり取りを朝までして、椅子に仰け反って21gを見る。イニャリトゥの編集の素晴らしさにため息を零し、途中で鑑賞をやめ、これまでの仕事を見直すことにした。
三日程前、こうした個人的には切り詰まった時間のスキマに腹に流し込んでいた、父親の打ってくれた手打ち蕎麦は旨かったと、不意に憶いだした。
3度目の会議の前に、The Edukatorsを借りていたので、深夜酒が抜けてからしネマディスプレイで観る。まだ35歳のHans Weingartner監督の2001年のWeisse Rauschen, Das (2001)が猛烈に見たくなった。88年に住んでいたツェーレンドルフの街並が懐かしい。Genta<観ろよ。