thomaspynchon.jpg3D仕立ての2Dで顕著になる「飛び出す」構造の粗末な絵作りと同様、巷にはリアクション (反応) を、予定調和として含み入れた幼稚な仕掛けが溢れかえり、きらきらと輝いて目を釘付けにさせ、あるいは大音響で仰天させ、といった「〜させ」を仕掛人が興行師の目付きで円陣を組んで躍起になり、「〜させられたい」待人たちの、日ごと余程のことでは納得しないジェットコースター的感応の網には、そろそろ日常そのものがひっかからない。
無反応の荒野とは、面白みがそこに無いのではなく、感応の深さがこちらに足りないことに、なかなか気づかない。知らぬうちに、鈍感な類型の不感症となり果てて、慌てることもなく、しかしなんか違うなと首をひねったままふっと消滅する蟻だ。
クリックばかりではヤバい。書店で本を手にとり、ただその厚さに対して頁を捲りたくなることもある。こちらが期待するのは、その厚さが、奇想天外、荒唐無稽な構築の手法で、厖大な言葉と時間に対して飽きさせない仕掛けが企まれていることではなくて、むしろ、いっそ、捲るのが淡々と、「反反応」という感触で持続され、時間もむしろ伸ばされて横たわること。
だから最近好む傾向の文体は、ともすればレトリックの失せた、黒沢という友人が独りで密閉された冬の間、部屋の片隅を長い時間をかけて木炭で素描したような(とここで彼の作品を実に鮮明に憶い出した)、説明ではない描写の目の率直さということになる。勿論、対象は言葉に限らない。