海綿

三日前は船乗りとなり見た事もない小さな岬の灯台かどこかで海図を広げ両肩両腕を広げて当惑する男を前にして行き先を英語で苦もなく尋ね、昨日は郊外の広大な公園のようなところに数万は集まったか人々の前のステージに立ちやや高いなと顎をあげて唇をマイクに近づけてモニター拡張された自分の声に気持ちよく唄っている。どれもおそらく短い夢だがそれら起因の芽を植えたような日常の事柄にも覚えがない。あまりに唐突で而も夢の中では全く迷いがない。パラレルワールドに転移転向したのかしらと思うほどだった。

ピノッキオに季節の目処とりつけ耳なし法一をまだ不遜な気がかりと続けているせいか聴こえを日に何度も観念で転がしている流れの内があった。アナウンスされる声には種類があって、最近はラジオのパーソナリティーの無神経やら気取りやら疲弊やらがやたら五月蝿くって聴かなくなったが、時折丁寧に精製された上質な水のように喉を流れるものは稀少であるが聴くと実に軀の深くまで染み込んでいく。

読物で言葉の隙間、余白に光景を浮かべ陽炎の人型仕草の衣擦れを聴くと、幻聴の縁に窓の外の鳥獣や大気の実際の弱い響きが渚のようにつながり、ひっそりと肉体が静まり表面も中身もあらゆる事々が吸い込まれる微細な穴の密集した海綿鉱物となる。