承 x

絶句構造である起承転結を物語の基本骨格と捉えた背景には言語体系自体への構造強化の意味がそれぞれの時代にはあった筈で、そういう意味での使い方はあるかもしれないが兎角過剰な雛形生産と誇大な「転」の装飾的土壷のラビリンスに陥る。罠に囚われた陶酔の表情は醜悪だ。

描写ばかりが必要であるこちらにとっては受ける「承」の反復が延々と継続されるのであって、はじまりの説明も結びのオチにも興味はないのだから仕方ない。この事態・立ち位置・態度自体を説明する饒舌を持ち合わせていない上、「承」る流浪の詳細が日々鮮明に刻印されるだけなので、目つきもそうなるのだろう、不幸な頑固者という逆さまの様相を得るようだ。幾度かそうした指摘をうけた。

広範囲に記号的な象徴となるしかない情報の浅薄な描写を反復するメディアにはその憐れな持続可能な営みの構造を反省しても原理的に未知を示すことはできない。人間そのものが未知であると吐露すること事態がこうした包囲網で封印されているのだから、余程の覚悟が無い限り、状況に気づきもしないわけだ。

社会というより人間的な恣意構造に付き纏う脆弱は、自明な存在理由ではなくて、人が群れとなる混沌淵にて個が融けて消える性質にあるようだ。