精神を動かされるモノの微細な差異検証はやめない

魂ではなく精神と仕切り直したのは、魂には闇雲が制限無く入り込むからであり、それを防ぐ手段を、防御を巡らすような気分はこちらには生来的にないので、精神としたわけだが、精神と魂の違いを全うに理解しているわけではない。最近の出来事の入り込みの検証が、ある種明快な切断をもたらしたので、記録しておくだけのこと。

団塊の世代と関わる言説の夜があり、自分のこれまでを振り返るとあまりその世代との顕著な精神的なやりとりはなかったので、あれと覚えのある違和感のようなものに首を傾げていた。学生の青い頃を憶いだすと兎に角年上が気に入らなかったので絶えず喧嘩をふっかけていた。世代的には十年以上団塊の世代と年齢の差異はあるので、おいお前と指差した先輩は団塊の世代ではなかったけれども、彼らの口から彼らの先輩の武勇伝が漏れそれを踏襲する素振り自体が団塊の世代といってもよかった。喧嘩をふっかけるその理由は単純で、わたしの「年上」たちは、集団傀儡の時代に生きながら出自を秘匿するような貧しさとそれに比例する高貴さを胸に同居させる生存手法の脆弱さ、「わかっているけどやめられない」にあった。しらかば派で終わっているような熱弁に、だからわたしは尻を向け糞を垂れていた。彼らのどこか唯我独尊、独我論が気にいらなかったわけだ。無論、当時は発作的に批判するのみで自らの行方など知ったことではなかった。

取材で訪れた工房で団塊の世代の世界的な作家作品を間近に観る機会があり、大雑把には理解していた作家コンテクストを辿って首を傾げ、同じ世代の作家を辿って同じ角度に首が動くのだった。むしろ精神が動かされたのは、世界的な作家の作家性ではなく、請け負った工房の刷り師の日々の営みの表情のほうに、こちらは重きがある。
個人的には1930年代生まれの作家たちに大きく影響を受けている経緯があり、これはOedipus complexかもしれないが、それ以前の所謂故人としての累々と歴史に横たわるものと別格的に現在も生成持続されるその生産性には日々驚かされている。一方「年上」の「団塊の世代」という一種異様な塊の表出には、やはり学生の頃と同じ独我の滲みがあり、不遜とは思うけれども、それが世代総体の彼らの責任ではないかもしれないが、それが卑しさとなって受け止められる。

その理由を並べる意味はわたしにはない。なぜなら、自分にとっての不要は切り捨てればいいだけだからだ。そういう意味で、だから世代作家論という視点になんらかのリアルティーが生まれ、精神のどこかコアな部分で、これを意識しないと、つまり切断の契機を喪失すると、「年上」の独我論の下僕となっている。因に、団塊の世代は、大人になった自らを「僕」と言葉にすることも気にいらない。

わたしは、切断と崩壊の世代と云われるとしても、そういう紆余曲折の時代に生きてきたのだからそれでいい。
精神を動かされるものは、だから確信犯的な「エセ完成」フェイクではなく、現実との駆け引きの七転八倒の率直がなければ切り捨てられる。演繹の彼方がはじまりにおいて崩れている実現に向かう姿勢に、だから精神は動かされる。