ノード並置

 十三、四の頃、年上に連れられて未成年で少人数の登山キャンプをして以来、キャンプをすることが愉快であり、家族とも海や山へと出かけて楽しんだ。年齢を重ねると車を使って道具や食材を積み込んだものとなり、終いには単独でなるべく軽装でと考えるようになったが、最近は実行の気力が伴わず、道具のカタログを捲っている。
 幼少の頃から、河を上流へ辿り歩き、落雷で裂け空洞のできあがった樹木を見つけて潜り込み、其処を棲家とする遊びに時折妹を連れていた記憶があり、家中でも、わざわざ階段の下の物置のスペースを自分の部屋として改造していた。朽ちてもいない買ったばかりの自転車の部品を変える改造に手を出し、その度に後悔した。気に入らないハーモニカを川に投げ捨てて、別の形のものを強請ったこともある。三島由紀夫が世間を騒がした年に、自らで漕ぐゴーカートを設計したが、机上の空論のまま頓挫している。
 国内だけでない海外の単独で行うブッシュクラフトの記録動画を眺める時間が多くある。おそらくこれは上記した自らの性情が投影されたものとして自らの過去を揺さぶり心地よいのだと思われるが、様々な顕れを眺めると、極まった状況下で時間と手間を惜しまずに仮設した、麗しいシェルターよりも、一過的な即興性にサバイバルが危ぶまれる形態にこちらは頷いて傾く。挑んだ者がトータルに反映するので、自我を存分に放射するものよりも、不完全に放置されたもののほうが、私は気高く潔いと受け止めることができる。
 
 未完の一過性、あるいは何がしらの結節点としてのみ残されている自身の制作作品を、数十年辿り直すような時間を経て、ここ数年の、同じように見受けられるものに凝視を与えて、懺悔を捧げるような心もちを含めて鉛筆を持ち、ノード並置から始める。この並置は統合に向かわず、節々を際立たせることだけを考えて行う。美的である必要はない。