Sonnar T* 90mm F2.8の試写(望遠による風景試写)をすると、ビューファインダーには、これまでにない景色が見えた。幼少の頃、天体望遠鏡で初めて見た揺れる月面を憶い出した。
「在庫が残り1ということで注文しちゃいました」とgentaが賢い判断をした「写真との対話 /近藤 耕人」を捲りながら、そのまま地下鉄へ持ち込み、行き帰りに読み耽っていたせいかもしれない。
「写真」という言説の豊かさは、そもそも写真には言説を突き放す仕組み(光とレンズと像)の成立因にあり、言語的な纏いを拒絶する人間以前の「数字」のような冷徹がその因の要となっていて、それは突き放しながら引寄せる「単純と難解」の混濁スープのようであり、絶えず経験の外から言葉の菌を繁殖させる。
人間的な肉体視覚感覚とは全く違った仕組みで、現在に顕われ続ける「かつての其処」という放下(オブジェクトな平面)であることの、そうした道具(イコン)を手にした人間の、率直な慌てぶりを、この本で再確認していた。写真を撮影することと、眺めることは、隣接するけれども、全く別の次元であるということだ。都度都合良く解釈する短絡も含め持つが、そうした所謂都合に応じた「美」「絵画」「記念」「趣味」「所有」「肖像」といった独我相対のオチと決める諸々の歪曲には「捏造」「修正」といった反写真的罪悪が忍び寄る。理解の懐に収めることなどできないと写真を放棄し、諦める態度にこそ眼差しの新しさが漲る。人間は写真という出来事に出会って、あまりに日が浅く(1827~)、そのことを知らない。
タイムマシンの開発基盤を写真であることから始める研究者が顕われ、レンズで受け止める光を、フィルムとデジタル以外のレセプター開発で享受可能となる時、写真は「探索・探求」の前衛に躍り出る。
67araki.gifデジタルとフィルムのどうしようもない差異を思い知りながら、67のフィルム選別をすると、フィルムが鉱物のような情報を内在しているという考えが再び浮かび、ドットピクセルで捕らえる(書き換える)というデジタルは、光とレンズに対して、根本的に間違っている態度なのだと行き着いた。いずれデジタルとフィルムの間に広がる荒野が明快に広がる筈。こうしたこちらの気のフレが呼んだかしらないが、「6×7反撃 /荒木経惟」の発売告知がamazonから届く。
街の物音をその空気の揺らぎを含めて記録しようとすると、「音」は、「写真」と血族であり、「鉱物」なのだと知ることができる。届いたm-flowのアルバムを聴くと、彼らの制作スタジオが、最新のデジタルカメラ・オブスキュラの箱なんだなと、刃の煌めきのような音の切断編集が腑に落ちたが、グラマラスなリミックスサウンドは、いささか知性が足りないが、得るモノはある。


Gerhard Richter: 100 Pictures
GERHARD RICHTER ゲ ルハルト・リヒター (DVD付)
高橋悠治|コレクショ ン1970年代